VIDEO

教会のビデオコーナー

  1. HOME
  2. 教会ビデオ
  3. 常盤台バプテスト教会 2025.10.12 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑱「あなたこそ神の聖者」森崇牧師【ヨハネによる福音書 6章60~71節】(新共同訳 新約P.176~177)

礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2025.10.12 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑱「あなたこそ神の聖者」森崇牧師【ヨハネによる福音書 6章60~71節】(新共同訳 新約P.176~177)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                 
招詞    イザヤ書 63章8~9節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生76番「まことの神よ」
主の祈り
献金感謝
聖書    ヨハネによる福音書 6章60~71節
特別賛美  ”如何なるめぐみぞ” 聖歌隊 
宣教    ヨハネ福音書講解⑱「あなたこそ神の聖者」  森 崇牧師
祈祷
賛美    新生131番「イエスのみことばは」
頌栄    新生668番「みさかえあれ(A)」
祝祷
後奏
宣教概要
「あなたこそ神の聖者」とは揺れ動く信仰を支える告白です。ヨハネ福音書においてはイエスこそは命のパンであり、「これを食べるものは死ぬことはない」との話が続きました。弟子たちの多くの者は「実にひどい話だ。誰が聞けるだろうか」(60)とつぶやきました。「ひどい」とは「嫌な/好ましくない/我慢ならない/耐え難い」の意味です。

やなせたかしさんのアンパンマンは当初、世間から受け入れられませんでした。アンパンマンが自分の顔を困っている人に与え、顔無しのヒーローが空を飛ぶとは実にひどい話と思われました。主イエスもまた、自分自身をパンとして、そしてその血を盃として差し出し、これは命のパンであり、食べるものは永遠に生きるとは実に奇妙な話です。イエスが呪われた十字架の死を迎えられる、そこに全人類の罪の赦しがあり、贖いがあるなどとは誰が気持ちよく聞ける話でしょうか。 (参照一コリ1:18,21)

このために「弟子たちの多くの者が離れ去り、もはやイエスと共に歩まなく」なりました。イエスさまは十二使徒に問われます。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハ6:66-67)「あなたがた」とは「私たち」のことです。多くの者がイエスを見限って生きていく、その中で私たちはどのように答えるのでしょうか。使徒の代表格であるシモン・ペテロは答えます。「主よ、誰のところに行きましょうか…あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と。これは「命を与えるのは"霊"である...わたしの話した言葉は霊であり命である」(63)に対応する言葉です。すなわち彼はイエスの言葉を永遠の命に通じるものとして信じて受け入れていたことを表明しました。

彼は続けて「あなたこそ神の聖者であると信じ/知っています」(69)と告白します。「神の聖者」(マルコ1:24、ルカ4:34のみ)とは「神の子」に等しい言葉です。神の聖者とはイエスの神からの派遣に関係します。即ち、神がイエスに全権を与え、そのわざは派遣する者(父なる神)と全く一致します。イエスは父の元から【降り】(ヨハネ6:33,38,41,42,50,51,58の7回)また十字架の救いを成し遂げて復活され、【上って】いかれる(62)方です。イエスを信じる信仰は上より来るものです。「父からお許しがなければ、誰もわたしのもとに来ることはできない」(65,37,44-45)とは、信仰は自己の決断によるものではなく、神の賜物に他ならないことを示します。信仰から離れていくものや裏切るものがいたとしても、それは天の父がその賜物を与えなかったことを意味します。

天の父の御心はイエス・キリストを通して私たちが「聖なる者」として生きることです。あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。(民15:40)旧約聖書では神と人とを執り成す祭司(レビ21:6-8)や主に献身しているナジル人(民6:5,8)が「聖なる者」と呼ばれます。しかし、神の御心は神が聖であられるように、神の民も聖なることが求められています(出エジ22:30,レビ11:44-45,19:2,20:8,20:26,民15:40,16:3,申33:2-3)イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。(レビ19:2)しかし、神の民はその聖さを追い求めることが出来ず、罪に堕ち、様々な苦難の中を生きました。暗黒とも呼べるバビロン捕囚(奴隷)時代を通して預言者ダニエルに以下のみ言葉が与えられます。それが過ぎると逆らいは終わり/罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し/幻と預言は封じられ/最も聖なる者に油が注がれる。(9:24)この最も聖なる方として油注がれる方こそイエス・キリストです。イエスさまは神の聖者としてこの世に来られ、また「イエスこそ神の聖者」と告白する信仰を通して私たちは聖なる者とされるのです。この信仰は何の恐れや不安もなくなるということでありません。神の聖者への信仰は不信人なもののために死んでくださった主イエス・キリストを信じること(ロマ4:5)です。すなわち、去っていった多くの弟子たち、あるいはイエスを引き渡したユダのために主イエスは来られた、ということです。最終的にはこのペテロですらも十字架の前に主イエスを否むのです(18章)。だからこそ、「あなたこそは神の聖者」という特別な信仰が弱い私たちの中に生きるのです。