礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2026.1.4. 11:00〜 主日礼拝 ヨハネ福音書講解㉔「あなたをひとりにはさせない」森崇牧師【ヨハネによる福音書 8章24~30節】(新共同訳 新約P.181~182)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編103篇 1~5節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生76番「まことの神よ」
主の祈り
献金感謝
主の晩餐式 新生414番「マラナタ」
聖書 ヨハネによる福音書 8章24~30節
宣教 ヨハネ福音書講解㉔「あなたをひとりにはさせない」 森 崇牧師
祈祷
賛美 新生73番「善き力にわれ囲まれ」
頌栄 新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 新年明けましておめでとうございます。今年も恵みと慈しみの主が、わたしたちと共におられますように。御子イエス・キリストがお生まれになった時、その名は「インマヌエル」、すなわち「神はわたしたちと共におられる」と告げられました(マタイ1:23)。
神が共におられる――これほど心強い言葉はありません。主は本当に良いお方です。
主イエスはヨハネ福音書の中で、ご自分を「わたしはある(エゴー・エイミ)」と紹介されました。これは旧約聖書で神ご自身が名乗られた言葉です。神はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と告げられました(出エジプト記3:14)。
この神の自己啓示から、出エジプトという救いの出来事が始まっていきます。奴隷から自由へ、叫びから喜びへ、死からいのちへ、嘆きから感謝へと導かれる救いです。現代ではこの神名を「いるよ、いるったらいるんだよ」と言うことが出来ます。
主イエスが同じ「わたしはある」と語られたのは、ご自分が十字架で成し遂げられる救いを前もって示すためでした。「あなたたちは、人の子を上げた時に初めて『わたしはある』ということ…がわかるだろう」(28)と主は言われました。「上げる」とは十字架を指します。「わたしは地上から上げられるとき、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスはご自分がどのような死を遂げるかを示そうとしてこう言われたのである。(12:32-33)十字架において、イエスが「わたしはある」と名乗られる神ご自身の救いを、すべての人のために現してくださったのです。
主イエスの救い主としてのイメージはそれだけにとどまりません。「わたしはある」という神の名を豊かに私たちに示されます。「わたしは命のパンである」「わたしは世の光である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは道であり真理であり命である」
この主イエスを信じない時、人は自分の罪の内に死ぬことになります(24)。それは共におられる神、イエスを信じない時、神との断絶が起こり、神のいのちから切り離される死を経験することとなるからです。
2026年の新しい年の初めに告げられる福音は「わたしはある」と言われるイエスがあなたと共におられる、ということです。主イエスは「私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。わたしを独りにはしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」(29)と語られました。主イエスは神さまを父と呼ばれ、この方より遣わされ、この方が共におられることを確信していました。この父とイエスとの関係性は、そのまま、主イエスと私たちに当てはめることができます。すなわち、父の在り方は、子の在り方と同じであるからです。父なる神がイエスと共におられたように、インマヌエルと呼ばれた主イエスは、私たちと共にいてくださいます。
そして私たちを新しい世界へと遣わされますが、その道のりで私たちを独りにされることは決してありません。主イエスが示される御心に叶うことを私たちは行っていくことが全てにおいて可能だからです。
あなたがこの主イエスを信じた時、この救いは確定されます。たとえ、私たちが人生の中で破れ、疲れ、諦めそうになる時があっても、この時の一瞬の信仰は、変わることのない救いへと常に招き入れてくださるからです。主は決して見捨てず、変わることのない救いへと招き続けてくださいます。主に期待しつつ、新しく歩んでいきましょう。
主イエスと共に。善き力に囲まれて。