礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2026.1.18. 主日礼拝 ヨハネ福音書講解㉖「死を超えるいのちの言葉」森崇牧師【ヨハネによる福音書 8章48~59節】(新共同訳 新約P.183~184)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ヨハネ黙示録 21章3~5節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生6番「主の名によりて」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 8章48~59節
特別賛美 「神のことば」新生讃美歌129番
宣教 ヨハネ福音書講解㉖「死を超えるいのちの言葉」 森 崇牧師
祈祷
賛美 新生137番「うみべの野で」
頌栄 新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(51)
主イエスは死を超えるいのちの言葉をお持ちのお方です。これまで旧約聖書は、人は死ぬ存在であるとのシンプルな死生観を持っていました。しかし、歴史の中で神の民がバビロン捕囚で憂き目に会う中で、死後に対する希望が起こされました。神の民がこの世では顧みられずとも、来るべき世で神がその貧しきを高め、驕る者を低めてくださるという終末の裁きの思想です。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」(5:28)と主イエスは言われました。「人の子の声」とはイエスの声であり、言葉です。それが響く時、全てのものは復活し、命を得るかあるいは裁きの座へと立たされます。ヨハネ福音書においては、この裁きの座は父なる神から遣わされてきている御子イエスにその全ての権限があります(5:22,27,30)。この福音書での「裁き」(10回頻出)とは「主イエスを受け入れないこと」(3:19)、「父なる神と共に御心を行うこと」(5:30,8:16) 「この世の支配者が断罪されること」(16:11)を指します。裁きとは善と悪が裁きの対象ではありますが、信心か不信心かは一切問われていません。そこにはどのように生きて善きものを顕したか、あるいはしなかったのかが問われています。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(16:8)とあるように、すべては主イエスの来臨の時にはっきりされることなのでしょう。
イエスと対話していたユダヤ人にはイエスを信じたものと信じなかったものがいました。この時、ユダヤ人はイエスを殺そうとしていました(8:40,44)。つまりイエスを十字架にて裁き、殺した人々です。真実な言葉を告げる主を裁く、ここに人の罪があります。主イエスの十字架は「世を罪から取り除く神の小羊」(1:29)としての栄光が神により顕わにされます。「主イエスの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」とは、主イエスの言葉を大切にして生きる時、神との断絶は起こらない、陰府の世界に渡されることはないとの希望の言葉でした。ユダヤ人たちはこの言葉を「アブラハムや預言者たちは死んだが死を味わうことがないとはどういうことか」と問います。この世の命しか目を留めない彼らは、神と共にある霊的な命があることに気づくことが出来ません。主イエスは「金持ちとラザロ」(ルカ16:19~)の中でアブラハムが天の宴席についているのを見ます。彼は霊的に生きているのです。主イエスは「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだのである」と告げます。「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と人々が問うと、イエスさまは答えられました。「はっきり言っておくアブラハムが生まれる前から、わたしはある」
「わたしはある」とは神の名ですので、このように名乗った主イエスに石を取り上げて、殺そうと投げました。主イエスの一連のやり取りは、どこかユーモラスで面白いと思われます。「お前は(人間として)生まれてなかろうもん」との問いに、「既にあったったい」と言った感じです。アブラハムが主イエスの日を見て喜んだとの言葉は、彼が現在霊的に生きているが故の、主の日を見て喜んでいるという事と、もう一つのことを含んでいると思われます。すなわち、アブラハムの中で最も大変な試練、愛する独り子をモリヤの山で献げよとの神の命令に苦しみながら従った時、一匹の雄羊が備えられた出来事です。彼はこれを「主の山に備えあり」と言い表しました(創22:14)。「アブラハムが主の日を見て喜んだ」とは、この備えられた一匹の羊の中に全世界を救うイエスの助け(十字架)をその生涯で見たということでしょうか。死を超えるいのちの言葉を、わたしたちは人生のどこに見出すのでしょうか。