礼拝
石原誠
常盤台バプテスト教会 2026.3.15. 主日礼拝 ヨハネ福音書講解㉝「アイロニー(皮肉)が示す真理」石原 誠神学生【ヨハネによる福音書 11章45~57節】(新共同訳 新約P.190~191)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編108篇 8~14節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生472番「ひとりのみ子を」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 11章45~57節
特別賛美 新生613番 ”主に従いゆかば” 聖歌隊unit
宣教 ヨハネ福音書講解㉝「アイロニー(皮肉)が示す真理」 森 崇牧師
祈祷
賛美 新生378番「海よりも深い主の愛」
頌栄 新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 本日の聖書箇所はイエス自身のエピソードではなく、イエスの影響を受けた人々の反応が記されています。ある神学書ではヨハネ福音書11章12章を「公の伝道の最高潮」と述べられていて「“いのち”を与える」これこそがイエスの公の伝道の結論だと記述されています。
ラザロを生き返らせた出来事は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる(ヨハネ11:25)」の具体的な示しです。それを見ていた人たちは、そのみ言葉を実感として受け取り、イエスへの信頼は蘇ったのです。関係性にいのちが吹き込まれたと言えます。
45節「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」
ここで著者ヨハネは、今までイエスに敵対する立場にいた人たち(宗教指導者たち)が、「イエスを信じる」という立場に逆転したことを「ユダヤ人の多く」と記すことで、この出来事の、影響力の大きさを強調します。
また聖書が語る「信じる」(pisteuo)という動詞は、単なる知的な同意や、存在の承認ということだけではありません。そこには「信頼する」「委ねて従う」という要素が含まれています。ですので、信じる側の一方的な判断の押し付けでもなく、「その時だけ」という一過性のでもありません。むしろ「信じる」という行為は、成長し続け、それが「愛の行い」によって明らかにされていくものであると聖書は言います。(テサ二1:3参照)「信じる」とは関係性や信頼の実践を含むものなのです。
46節、「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」と、記されています。
ファリサイ派というのは、律法と伝承を重んじるユダヤ教の一学派で、イエスと敵対する代表格のように福音書では描かれています。が、実際には様々な立場が存在していました。
「しかし」という逆説の接続詞は、原語だと「そして」や「さて」と訳すことも出来ます。そうするとファリサイ派の人々に告げに行った者の動機を多様な解釈で見ることができ、その解釈の多様性から「信じる」ことの示唆が窺えます。つまり「信じる」というのは成長し変容するものですので、人によって、またその時々によって、それぞれの「信じる」に含まれる応答姿勢は多様であるということです。
私たちの信仰は、いつも一定ではなく葛藤や自問自答を繰り返し、自身の信仰を吟味しながら成長・成熟していくのです。
47節以降は宗教指導者たちにスポットがあてられています。彼らは直ちに最高法院を召集しました。「最高法院」というのはユダヤ教の中で“最高裁判所”にあたる、サンヘドリン(大評議会)という会議体のことです。
そしてその最高法院で宗教指導者たちはローマを恐れ警戒しました。その中で大祭司カイアファは力強く発言したのです。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。(50)」と、最大多数の最大幸福を目指す、もっともらしい政治的判断を促したのです。しかしこの言葉は神の預言です。しかも「散らされている神の子たちを一つに集めるため」の。これは10章16節のみ言葉とも響き合います。そしてここでイエスの死は確定されました。
しかしイエスの死は、決して政治的判断などではなく、御子を信じるすべての人を「救い」に導こうとされる神の「愛」ゆえです。
人は「邪魔者を排除するため」…神は「全ての人を救うため」…イエスは十字架に掛かります。その動機は真逆で、まさにアイロニーの奥で神の真理は示されます。
「愛」とは正反対の「憎しみ」「争い」しかない所でさえも、神の偉大な「愛」は示されていると、私たちは「信じる」のです。