礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2026.8.16. ヨハネ福音書講解(52)「四方に至るイエスの救い」森崇牧師【ヨハネによる福音書19章16節~27節】(新共同訳 新約P.207)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 イザヤ書 53章1~5節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生221番「血しおしたたる」
主の祈り
献金感謝
バプテスマ式 賛美歌 新生401番「わが君イエスよ 罪の身は」1.4節
聖書 ヨハネによる福音書19章16節~27節
特別賛美 教会福音讃美歌245番「御名をほめたたえる歌声より」
宣教 ヨハネ福音書講解(52)「四方に至るイエスの救い」 森 崇牧師
祈祷
賛美 新生232番「カルバリ山の十字架につきて」
頌栄 新生672番「ものみなたたえよ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 十字架の主の御名を心からほめたたえて賛美します。私たちの主は、イエス・キリストです。この方は十字架において、すべての人の救いを成し遂げてくださいました。
主が十字架に磔にされた時、その衣は四つに分けられ、四人の兵士に分けられました。つまり、これは四方に渡されたとの意味で、すべてに等しく、イエスの救いが広がったという事です。初代教会の教父はこれを四大大陸として捉え、全地に広がり、四つの地域すべてに等しく、分配されたと考えました。
そしてこの時、裂かれなかった一枚織りとは、神に執り成す大祭司を意味していました(出28:31-2)。神と人を執り成すお方は、唯一であり、ただ一人です。
この十字架の主の元には、不信仰を代表する四人のローマ兵と、十字架のそばに至るまで従った四人の姉妹がいます。これはそれぞれ、不信仰と信仰の世界(四方)においても、主の救いは完全に成ったという事でしょう。それは聖書の言葉(詩22:19)が完全に実現するためでした。
私たちは、四方に至るイエスの救いを信じます。主イエスの救いは、私だけでなく、家族にも救いをもたらすことが出来る、と(使徒16:31)。主イエスの救いは、こんな罪深い私にも変わらず等しく与えられている。主イエスの救いは、私を贖い、神にあるものとして全き者とする。主イエスの救いは、かつて他人であったものを兄弟姉妹とし、神にある豊かな交わりへと導いてくれる(ヨハネ19:25-27)。主イエスの救いは、私たちの人生を神にあるものとされる。これが、個人における四方の救いです。
キリストの教会は、この四方の救いを実現させるため働きます。すなわち、神を愛する礼拝を中心に全ての人が礼拝に与かれるように招きます。そして教会は神の家族の交わりに入り互いに助け合います。教会は信仰の成長を目指し、聖書を読み、互いに教え、祈りの生活を深め、自分を与える献金を奨励します。
教会は賜物を用いて奉仕し、隣人に仕えます。教会は神の国の実現を目指して伝道し、世の光とされた人々を世界に遣わします。教会における四方は、【交わり・成長・奉仕・伝道】です。どの分野においても、主の救いが完全になるように、私たちは祈りつつ、霊の火に燃えます。
ヨハネ福音書では「十字架」という単語は19章にのみ、集中しています(17回)。十字架刑はローマ帝国の中で最も厳しく、最も非人道的な処刑方法でした。その十字架は、ヨハネ福音書では、イエスお一人で、そして自ら十字架を背負われました(17)。そして「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれました。これはそれぞれ地方の言葉、公的な言葉、国際的な共通語で記されました。ピラトが書いたこの立て札は、ナザレのイエスが世界の王であり、救い主であることをすべての人にわかるように示したという事です。イエスは神の救いをまことに顕すべく、十字架によって王とされた方でした。
古いキリスト教由来の格言に“No cross, no crown”「十字架なしに王冠はない」とあります。苦難を通し与えられる栄光への忍耐と信仰を深めています。それは、力を振るう人間の中でもてあそばれ、運命に流されているようでありながら、自ら苦難を引き受け、自らを与えていく真理の栄冠を持つ王でした。
イエスご自身はヨハネ福音書において「十字架」という言葉を一度も用いられませんでした。それは苦難の内に十字架を背負って死んでいくというよりは、イエスの受難を通して顕される神の栄光がより強調されているからです。イエスさまは「十字架」という言葉の代わりに、「上げる」という言葉を用いて伝えます。
すなわち人の子が上げられることにより、信じる者に永遠の命がもたらされ(3:14-15)、『わたしはある』と言われる主ご自身の顕現があり(8:28)、全ての人が主イエスのもとに引き寄せられる(12:32)ことでした。主イエスの救いと栄光は十字架と復活において顕されます。この主イエスが、私たちと今ともに生きておられ、四方の完全な救いの中で、共に生きて働くよう、私たちは招かれています。