礼拝
渡部信
常盤台バプテスト教会 2022.9.25 主日礼拝 「生きるのも、死ぬのも主のため」渡部信牧師【フィリピの信徒への手紙 1章20~26節】(新共同訳 新約P.362)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 コヘレトの言葉 12章11~14節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生604番「主を仰ぎ見れば」1.2節
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章20~26節
特別賛美 新生90番「神 この世を愛したもう」
宣教 「生きるのも、死ぬのも主のため」渡部信牧師
祈祷
賛美 新生630番「イエスのみ前に立ち」1.3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 私たちは、一度は、自分は何のために生まれたのであろう、誰でも考えたことがあると思います。分かりやすく言えば、自分はどのような人生を送くろうとしているのか。ということです。でも現実生活を生きるためには、実際は、それを深く考えないで生活を送っているのが現状です。
聖書は、そのような様々な人生の過程の中で、人生の最終目的は何か。本当の幸福とは何か。そのためにどのような生き方をすれば良いのか。私たち一人ひとりに大切なメッセージを伝えています。今日は使徒パウロの書巻、フィリピ人への手紙からお話をしたいと思います。
まず旧約聖書には、コヘレトの書という約2200年前に書かれた書巻が載っておりますが、その書き出しを読んでみますと「何という空しさ なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は苦労するが すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠の大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、巡り巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることはなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。」
実はこの「コヘレトの書」と言うのはヘレニズム文化の影響を受け、紀元前200年から300年ごろ編纂されたもので、特に、若い人は思春期に入りますと、人は最後に結局、死ぬ運命だと自覚すると、人生に厭世的な感情を経験するでしょう。あまりそれを真剣に考えすぎて、自死してしまう事があります。ユダヤ教ではこのギリシャ哲学の厭世主義が入り込んできた時に、この問題を信仰によってどのように理解したらよいのか、そのような狙いを持ってこの書が書かれました。注意深く読みますと、文章の中にヒントが隠されていて、つまり一番大事なことは、「神を思う心、神を信じる心」である。そして若い時に、少しでも早く神を求めなさい、神は永遠の神なのだから。あせらず、人生を時にかなって過ごしなさい。理屈に合わないこともたくさんあります。けれども人には答えを見つけることはできないのだから、泣くときには泣き、楽しむ時は楽しめ。そしていつも神に感謝して過ごせ。後になってから悔いることのないように。このような積極的な信仰を勧めていて、明日、良いこと、悪いこと、何が起こるのか分からないからこそ、今日1日をまず神の国を求めて、その日を一生懸命、生きなさい、と勧めているのです。
そこで、本題のフィリピ人への手紙に戻りたいと思いますが、フィリピ人への手紙を記した使徒パウロは、始めはクリスチャンを迫害した者でした。後に、天からの声を聞き、自分の間違った行動を示されて、悔い改め回心しクリスチャンになりました。その後、一転してキリストの救いの福音をのべ伝える伝道者となって、死に至るまでその一生を捧げたのです。彼にとって、厭世的な思いを起こさせる力は、罪の力であり、最後は死と滅びです。それが私たちを苦しめているのだ。なぜならそこには死を超越した永遠の命がないからです。しかしイエス・キリストは神からこの世に遣わされ、その罪を取り除く小羊として、十字架で流された血潮によって罪を清め、私たちの罪を贖ってくださった。そしてこの死んでも復活の永遠の命を与えてくださる福音こそ、神の愛、神の恵み、人生最大の救いだと彼は理解したのです。つまり私たちは「生きるにも死ぬにも主のため」に生きることを。・・・・