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礼拝
森 崇

常盤台バプテスト教会 2022.11.20 主日礼拝 「主が共におられたので ーどん底での気づきー 」森 崇牧師(平尾バプテスト教会、大名クロスガーデン牧師)【創世記 39章16~23節】(新共同訳 旧約P.69)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                     
招詞   マタイによる福音書 28章 18~20節  司式者
祈祷          司式者
賛美   新生134番「生命のみことばたえにくすし」
献金感謝                 司式者
聖書   創世記 39章16~23節
特別賛美 第一礼拝 ”小さな祈り”
      第二礼拝 ”詩篇62”
宣教   主が共におられたので ーどん底での気づきー 」森 崇牧師(平尾バプテスト教会、大名クロスガーデン牧師)
祈祷
賛美   新生552番「わたしが悩むときも」1.2節
頌栄    新生674番「父 み子 聖霊の」
祝祷
後奏
宣教概要
 常盤台教会にお招き頂き、心より感謝申し上げます。昨年の成人祝福感謝礼拝ではビデオメッセージをさせて頂きましたが、本日ここで皆様と顔を会わせて(あるいは紙面やオンライン礼拝で)共に礼拝が出来ますことを心から主に感謝しています。
本日の聖書個所はヨセフが人生の「どん底」であった時に、主がともにおられ、すべてのことは主の計らいのうちにあったことを示しています。彼の人生にはどん底とも呼べる時が少なくとも二度ありました。それはヨセフが父ヤコブから特別な寵愛を受ける中で兄弟たちから憎しみをかい、「穴」に落とされ、エジプトに奴隷として売られてしまったこと、そして、奴隷として売られた先で一生懸命エジプト人ポティファルの下で仕えたのにも関わらず、その妻に言い寄られ、妻から逃げたために無実の罪で監獄へと入れられたことです。この「監獄」という言葉は、兄弟達がヨセフを落とし込んだ「穴」(37:24)と同じ言葉であり、ヨセフにとっての人生の落とし穴、そしてどん底を意味していました。
ですが、彼は人生のどん底の中で、自分の人生を諦めませんでした。彼は置かれた環境の中で、最善を尽くして生きる道を選び取りました。彼に与えられた環境が彼の人生を支配するのではなく、どんな環境の中にあっても、彼は生きる希望と喜びを見出そうとした人でした。
ナチスによって捕えられ、アウシュビッツ収容所を経験し、生き残った心理学者のヴィクトール・フランクルは『それでも人生にイエスという』という本を書きました。彼はアウシュビッツ収容中に仲間が次々と希望を失って死んでいく中で、「人を本当に生かすものは何か」を問いました。彼が発見したことは、「環境が人を殺したり生かしたりするのではなく、どのような環境の中にあっても、そこに生きる意味を見出し、どんな環境であったとしても、その人に対する人生の目的と意味を与えるものが潜在的にあるのだ、そしてそれを探し求めることこそ、生きる力につながっていくのだ」と言うことを発見し、説きました。
この時のヨセフもまた、人生の苦難の中にあっても、どのような時でもそこには意味と目的があると言うことを見出した、希望の人でした。彼の人生から私たちは次のことを教えられます。苦難は罰や罪の結果として来るのではなく、私たちに来る苦難には必ず大きな意味がある、ということです。
ヨセフは13年間の獄中生活の後に、王の夢を解きあてて、エジプトの宰相となります。彼は7年続いた豊作の後の、7年の大飢饉からエジプトや隣国一帯の人々の命を救うために知恵を持って働くものとなります。また彼の人生の痛みの課題であった兄弟との確執ー憎しみに支配される人生から、和解と平和と大いなる救いのための人生の計画に参与するものへと変えられていきます。ヨセフは後に自分を見捨てた兄弟たちに向かって、「わたしをここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(45:8)と言います。これはヨセフが人間的な肉の世界の中に生きながらも、全ての事柄は神さまの配剤の中にあり、大いなる救いへと招かれることであったとの告白です。主は大いなる和解と多くのものの救いのために苦しみを受けたものを用いられるということでした。主は、嘆きや挫折を経験した人々を特に愛し、またご自分の目的のために用いて頂ける方です。
今、コロナの第8波が心配されるこの時に、私たちが何度挫けようとも、また何度人生の闇に落とされようとも、聖書はそこで神の伴いと神の恵みが尽きることはないと約束されています。そうです。私たちは困難に支配されているのではなく、困難の中で、多くの人々の救いとなるべく、主の取り計らいをいつも、受けているのです。