礼拝
嶋田和幸
常盤台バプテスト教会 2023.8.6 平和主日礼拝 「力を捨てた神」嶋田和幸師(カンボジア連合宣教師)【詩編 46 篇8~12節】(新共同訳 旧約P.880)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編 56篇11~14節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生326番「ガリラヤの風」1.3節
献金感謝
主の晩餐式 「ひとつの聖霊」
聖書 詩編 46 篇8~12節
特別賛美 「平和の祈り」 聖歌隊
宣教 「力を捨てた神」嶋田和幸師(カンボジア連合宣教師)
祈祷
賛美 新生260番「み言葉もて霊の火を」1.3節
頌栄 新生674番「父 み子 聖霊の」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 今年、カンボジアはキリスト教宣教100周年を迎え、首都プノンペンで大規模なイベントが行われました。宣教開始から100年経った現在、カンボジアではプロテスタント、カトリック合わせて20万人以上のクリスチャンがいます。現在カンボジアでは、キリスト教の宣教、伝道に対して政府の迫害や妨害などはなく、自由に宣教活動ができる状況です。クリスチャン率は2~3%と言われています。
しかし、かつてカンボジアの教会は、歴史のうねりの中で、極めて大きな苦難を通らされました。1975年、ポルポト率いる・クメール・ルージュ政党が政権を握りました。そこから、教会にとってはもちろん、カンボジアの国民全体にとって、暗黒の4年間となりました。ポルポトが目指す極端な共産思想のもと、知識人は皆殺しにされ、家族制度は否定され、教会は廃墟となるか、自然消滅してゆきました。それから約50年、現在カンボジアでは内戦もなく、政治的には安定し、その意味では平和な社会です。経済も順調に成長しています。しかし、カンボジア社会の様々な面で、強い者が弱い者を支配する力の構造が、根強く残っています。
平和を実現するために必要なことの1つは「力」を知り、その扱い方を知ることでしょう。力とは何なのか、私たちはそれをどう扱えばいいのか。詩編の46篇9節から、11節には、主によって地上のありとあらゆる戦い、争いが断たれる様子が描かれます。主はあらゆる戦いの武具を破壊し、争いを終結させます。これはまさしく、主が最終的に成し遂げる、すべての戦いの終結、平和の実現のビジョンです。その目的を達成するために、神様は、私たちに命令を与えます。「力を捨てよ、知れ、わたしは神」。
神さまを知るために、私たちは力を手放し、捨てるのです。その力とは具体的には、他人の上に立って支配することです。それをやめなさい、捨てなさい、手放しなさいと神さまは言われます。私たちは皆、他者の上に立って、コントロールしたい、支配したいという願望を持っています。その願望の根源にあるのは、私たちが神のようになろうとすることです。
聖書のはじめ、創世記において、悪魔がアダムとエバを誘惑した時、どんな言葉を使ったでしょうか?「あなたたちは、神のようになれる」。アダムとエバはこの言葉に屈し、神さまと人間の関係が壊れてしまいました。更に、アダムとエバの関係にも決定的な破れが生じてしまいました。神はエバにこう言われました「彼、アダムはお前を支配する」。ここから、人間と人間の関係に、力による支配が入り込んだのです。
あらゆる人間関係における、支配と被支配の関係は、アダムとエバが抱いた願望「神のようになる」から始まっています。この願望ゆえに、力の構造が出来、個人においても社会においても、力の支配を確立するための戦いが、繰り返されるようになりました。私たちは、力を振るいたい誘惑にかられた瞬間、神さまへの畏れを忘れ、目の前にいるその人も、神に似たものとして創られた者であることを忘れてしまいます。つまり、その瞬間、無意識にでも、自分を神と等しい存在としてしまっているのです。
神さまは言われます「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」。神さまは、「私が神である。私を知りなさい」と言われます。その神とは、力によって人々を支配する神ではありません。支配するのではなく、人々に仕える神です。すなわち、御子イエス・キリストにおいてご自身を現わされた神です。私たちが神を知るために、神はイエス・キリストにおいてこの世に来られました。