VIDEO

教会のビデオコーナー

  1. HOME
  2. 教会ビデオ
  3. 常盤台バプテスト教会 2024.2.18 主日礼拝 何のためにいきるのか⑥「天に属し、地に生きる」森 崇牧師【フィリピの信徒への手紙 3章10~21節】(新共同訳 新約P.365)

礼拝
森 崇

常盤台バプテスト教会 2024.2.18 主日礼拝 何のためにいきるのか⑥「天に属し、地に生きる」森 崇牧師【フィリピの信徒への手紙 3章10~21節】(新共同訳 新約P.365)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    マルコによる福音書 13章26~27節    司式者
祈祷                        司式者
賛美    教団讃美歌90番「ここも神の み国なれば」
献金感謝              
聖書    フィリピの信徒への手紙 3章10~21節
特別賛美  「たからかにほめよ」聖歌隊
宣教    何のためにいきるのか⑥「天に属し。地に生きる」 森 崇牧師
祈祷
賛美    讃美歌21 528番「あなたの道を」
頌栄    新生667番「聖なるかな 聖なるかな」
祝祷
後奏
宣教概要
 私たちの人生はマラソンのように例えられます。使徒パウロは人生というマラソンを走り終えたのちに「完全なもの」(3:12)とされることを待ち望んでいました。これを捕えようと努めつつ、キリストによって捕らえられている者として信仰者としての歩みを続けています。
マラソンというと箱根駅伝を思いますが、私たちが人生のマラソンを走っている間、その胸につけているゼッケンは「キリストのもの」と書かれたものを着ていることでしょう。パウロの言葉がこの地上の生を歩む私たちに励みとなります。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
このマラソンに例えられる人生の中で多くの苦しみが胸中を占めることがあります。「わたしはなぜ走って(生きて)いるのか」/「わたしの人生のゴールは、目標はどこか」/「いつまで走らなければいけないのか」/「独りになり、孤独を感じる」などです。そのような思いや考えは人生の中でも大切なものであり、決して無下にしてはなりません。パウロは「あなたがたに別の考えがあるなら、神はそのことを明らかにして下さる」(15節)と語りますが、神ご自身の思いや意志を、明らかに啓示してくださる、と語ります。むしろ私たちの人生で健全ではない教えは明確にされます。それは「十字架に敵対して歩む」こと、「自分の腹を神とする」(18,19節)ことです。これらの人々はこの世の生こそが全てであり、目に見えるものこそが至上のものという歩みを続けていました。しかし、これら滅びに対抗するものとして、キリストを信じる信仰によってのみよしとされる歩みがあります。この歩みはパウロの言葉では以下のように言い表されます。「わたしにとって生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1:21)キリストのように生きよ、キリスト(に属するもの)として生きよ、そうすればキリストを得るであろう、というパウロの篤い励ましが今を生きる私たちに響きます。
わたしたちが目指すべきゴール、目標は天の国です。天の国からは御子イエス・キリストが地上に来られ、私たちと共に歩み、また天の国へとあげられましたが、このイエスさまによって私たちは天の国の市民権を得ています(※「上へ召して」14節)。宗教改革者ルターはパウロの「私たちの本国は天にあります」という言葉を「わたしたちのふるさとは天にあります」と訳しました。御子イエスが私たちのためにこられ、また天の御国を私たちのふるさととして下さっていることを心から感謝します。天に属しながら、地に生きる、この生き方をパウロはフィリピの信徒への手紙で大胆に解き明かします。一つは「喜びの性質を持って生きる」ということです。パウロはこの手紙の中で「喜び」を強調します。これは何でもかんでも喜んでいなさい、快い状態のままでいなさいということではありません。パウロはこの時、獄舎にて鎖に繋がれながらも喜びを強調しました。それは、福音にあずかるものの内に始まった善い業はキリスト・イエスの日までにそのわざが完成される(=成し遂げて下さる)のを確信しているからです(1:5-6)。神の力がこの身に宿り、それを完成させて下さるのも神の力によるのだと信じていればこそ、パウロの中にある喜びは先取りした喜びとしてこの地上の生で顕されます。それは苦難をも恵みとして喜ぶ力へと変えられます(1:29)。天に属し、地に生きる生き方の二番目は「キリスト・イエスの心を心とする」(2:5~文語訳)ことです。フィリピ2:6-11は「キリスト賛歌」と呼ばれ初期キリスト教会において朗唱されたものです。キリストが神の身分でありながらもこれに固執しようとせず、かえって自分を無にして僕の身分となり、人となられ、死に至るまで、十字架の死に至るまでも従順であられた、この主イエスの献身の姿こそ、すべてのものの主となられた救い主の姿であることを告白しています。パウロはこのイエスの姿に倣うべく生き、そしてまたこの主イエスの生き方に倣うことをあなたがたの喜びとせよと強く勧めます。それはなぜかというと、私たちがこの地上で卑しいからだを持ちながらも、主イエスと同じようにご自分の栄光ある体へと変えて下さるからです。私たちは天に属するものとして天の栄光を身に負うべく、地にしてこのいのちの限り主イエスに倣うように、その苦難さえも喜びとして恵みとして受け入れることが可能なのです。