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礼拝
森 崇

常盤台バプテスト教会 2024.8.11 主日礼拝 人生を導く善き力24週 キリストに似る③「呼び求めよ、聖書」森 崇牧師【詩編 119篇9~16節】(新共同訳 旧約P.959)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    エゼキエル書 3章1~4節    司式者
祈祷                        司式者
賛美    こどもさんびか 2番「きょうはひかりが」
献金感謝            
聖書    詩編 119篇9~16節
特別賛美  「あなたのみことば」
宣教    人生を導く善き力24週 キリストに似る③「呼び求めよ、聖書」 森 崇牧師
祈祷
賛美    新生131番「イエスのみことばは」
頌栄    新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏
宣教概要
 私たちは、聖書の言葉を通してキリストに似た者とされます。聖書の言葉は信仰に与かった者には「神の言葉」であり、これを信仰者は「御言葉」として尊びます。「御言葉」とは「御(あなたの)・言葉」という意味です。聖書の言葉を神の言葉とし、御言葉として受け入れていく時、私たちは神の子どもとしてイエス・キリストに倣う者、またイエス・キリストに似た者とされるのです。
私たちは聖書を読み、また親しむことでキリストに似たものとなると信じます。聖書は「生ける神の言葉」であり、これを呼び求めることによって私たちの血となり肉となり、霊的なからだは組み合わされ、強められるのです。主イエスは「聖書も神の力も知らないからそんな思い違いをしているのだ、復活する時には…天使のようになるのだ」(マルコ12:24~)と言われました。聖書は私たちに働く神の力であり、その御言葉により私たちの内なる人は霊的な存在へと変えられるのです。
 詩編119篇は神の言葉への賛美を綴ったアルファベットによる詩です。ヘブライ語22文字(右下参照)を全て8節ずつ、同じアルファベットで始める歌が並んでいます。9-16節はヘブライ語のベト(Bの意)です。この詩編では一節ずつ、神の言葉の意味と性質が分かる言葉が必ず存在します。すなわち「あなたの御言葉(9)・あなたの戒め(10)・仰せ(11)・あなたの掟(12,16)・裁き(13)・あなたの定め(14)・あなたの命令(15)」です。ほかには「主の律法(教え)」(1)、「あなたの道」(37)、「あなたのまこと」(90)口語訳、新改訳「あなたの真実」)があります。これらが176節の殆どすべてにあり、神の言葉への賛美を最初(アレフ)から最後(タウ)に至るまで完成させています。聖書を読むとは神を尋ね求めることです。「心を尽くして私はあなたを尋ね求めます」(10)とありますが、神の言葉を追い求めることは神ご自身を求めることになります。それでは神の言葉をどのように呼び求め、尋ねればよいのでしょうか。
 
 第一は神の言葉として「受け入れる」ことです。聖書がただ単なる文章や古典ではなく、神の霊感によって書かれ、私たちに向けて書かれたものであることを信じて受け入れることです。私たちが神の言葉を受け入れる決断をしたとき、霊による慰めと励ましが注がれるでしょう。第二は「読む」ことです。聖書の読み方も様々ありますが、読むことを続けるために必要なことは手元に置いて開けておくことです。一日15分ほど聖書を読めば、一年を通して聖書を通読できます。第三は「研究する」ことです。聖書を読むときに繰り返し前後に出てくる単語は重要なことを示すことがあります。第四は「覚える」ことです。自分の心に残った聖書の言葉をノートに書きだしながら読んでいきましょう。繰り返しそのノートを見返すことでみ言葉を覚えることができます。第五は「証しする」ことです。証しをする、とは聖書の言葉を実践して生きることです。短い聖書の言葉を手紙の最後にそえたりすることでも実践することとなります。
 聖書を読んでみたい。でも、続くかどうかわからないので始めづらい。と思っておられるでしょうか。その時には、ぜひ周りにいる先輩キリスト者や教会学校教師、牧師スタッフにご相談ください。どのような形で始められるか、ぜひ伴そうして共に聖書を学んでみましょう。イエスさまはエマオの途上で、十字架の出来事に失望し、逃げていた二人の名もなき弟子たちに伴われました。彼らは主イエスだと気づきませんでしたが、主はその二人と共に歩み、聖書全体にわたり説明されました(ルカ24:27)。この一行が宿に泊まり、主イエスがパンを裂かれたとき、この二人の目が開け、主が共におられることに気づきました。そこで彼らは言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちのこころは燃えていたではないか」と。私たちが互いに聖書を読むとき、またその真理のみ言葉に耳をかたむける時、復活の主は伴って必要なことを教えてくださいます。例え、その場にいるのが主だとわからなかったとしても、聖書を読むとき、私たちのこころには聖霊の灯が備えられ、こころ燃えて新たな生き方が可能になるのです。

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למנסעפצקרשת                
          *右から左に並んでいます