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礼拝
森 崇

常盤台バプテスト教会 2025.1.12 祝・成人感謝礼拝 「真理による新生と使命」森 崇牧師【ヨハネによる福音書 17章17~19節】(新共同訳 新約P.202~203)


礼拝出席カード



音声メッセージ

動画の音声が非常に聞きづらくなっております。後ほど、修正したものをアップロードさせていただきますが、それまでは、音声メッセージをお聞きいただけますと感謝です。

礼拝プログラム
前奏                
招詞    詩編 119篇9~10節    司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生548番「力強き主よ導きたまえ」
献金感謝       
聖書    ヨハネによる福音書 17章17~19節
特別賛美  ”神の作品として生きる”
宣教    「真理による新生と使命」 森 崇牧師
祈祷
賛美    新生300番「罪ゆるされしこの身をば」
頌栄    新生671番「ものみなたたえよ(A)」
祝祷
後奏
宣教概要
 新年が始まり、成人を迎えた方々を覚え、祈り祝福するために祝・成人感謝礼拝を主におささげしています。成人を迎えられた皆さん、おめでとうございます。日本では成人というと様々な権利や責任が生まれますが、聖書ではイエス・キリストにおいて聖なる者、聖人とされます。通常、聖人とは何か人ならざる者、特別なものをイメージします。しかし聖人とは神の与えられた命を生き、主の使命と働きに生きるすべての信心を持つ人々が聖人と呼ばれます。
 本日の礼拝において選んだ御言葉は「イエスの祈り」(17章)です。古くから「大祭司の祈り」と呼ばれ、イエスさまが十字架を目前にして祈る祈りです。神の使命を担い生きる時、必要なことは常に祈ることです。人生の使命に生きる時、祈ることでその働きが神によって全うされます。このイエスの祈りから三つのことを分かち合いましょう。
①栄光を顕すため、栄光が与えられるよう祈る
主イエスは「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(1,4,5)と祈りました。栄光とは何でしょうか。栄光とは人間が勝ち取ったり、互いに与え合ったりするものではありません。人間が主張する栄光は真の栄光ではありません。栄光はただ神から頂くものです。また栄光へと参与させるのも父なる神です。イエスはこの神を父と呼び、また私たちにも「父よ」と呼びかけて祈る幸いを与えられました(マコ14:36,ガラ4:6,ロマ8:15)。聖書では「栄光」とは「人になる」ことです。神の御子が人となって私たちの間に宿られた(1:14)これが栄光です。高ぶりではなく謙り、豊かさではなく貧しさ、自分の思いではなく神や隣人への思いが実現すること、これが栄光です。ヨハネ福音書では「栄光」とは人と共に生きられたイエスが、受難を受け、十字架の死に至るまでもその使命を全うされたイエスが復活された、これが栄光です。これを信じる時神の栄光に私た

ちは与かることができます。
②主イエスはあなたを覚えて祈られる
主イエスは「聖なる父よ…彼らを守ってください。わたしがお願いするのは…悪い者から守ってくださることです」(11,15)と祈られました。主イエスは十字架の後、復活され天にあげられますが、常にご自分の弟子たちを覚えて祈られています。それは信仰の戦いがないようにではなく、父と子と聖霊の交わりの中で歩めるように、主との交わりの中に生きることができるようにとの祈りでした。
③聖なる者として生きる
主イエスは「真理によって聖なる者としてください」(17)と祈られました。「真理」とは「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(14:6)と言われた主イエスの存在そのものです。イエスの十字架のあがないは私たちを聖なる者とします。聖なる者の務めとは、み言葉を語り、希望のメッセージを伝えることです。真理による聖化は常に特別な使命を与えます。「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)とあるように、罪や捕らわれからの解放、新しい自分への変革をもたらします。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18)と主イエスの言葉により押し出され、世に遣わされます。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(3:16)世に遣わされる目標は一人も滅びることなく永遠の命にあずかるために主イエスにより各々の人生へと派遣されます。
 主イエスは「彼らのためにわたしは自分自身をささげます。彼らも真理によってささげられたものとなるためです」(19)と祈られました。私たちの人生は、主イエスが自分自身を十字架におかかりになるほどに命をささげられたことにより、罪の権力の座から解き放たれ、神にある新しい命へとあがないだして下さっています。この「自分自身をささげる」とは「聖なる者」と同じ言葉(ギリシア語ハギアゾー)です。神の前にささげる人生を生きる時、聖なる者としての歩みが全うされます。主イエスにより、聖霊により、また主イエスの献身により、私たちは聖なる者とされ、聖なる者として歩むことが可能です。