礼拝
友納靖史
2021.4.25 召天者記念礼拝 「たとえ奇跡を見ても・・・」 友納 靖史 牧師 【ルカによる福音書 16章19~31節】(新共同訳 新約P.141,142)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 讃美歌21 575番 球根の中には 1、2、3節
聖書 ルカによる福音書16章19~31節
特別賛美演奏 "まもなくかなたの" 奏楽者
宣教 「たとえ奇跡を見ても…」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 教団453番 聞けや愛の言葉を 1、2節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「目の前で奇跡を見たら神を信じよう…」と考えている人は少なくないでしょう。しかし、神を信じ従う決断は、超自然的現象を見るからできるのではないと聖書は語りかけます。
今日の御言葉は、ルカ独自の「譬え話」の一つで、三人の人物が登場します。主人公は、金持ちで贅沢に遊び暮らした男。次にその金持ちの家の門前で物乞いをしながら皮膚病で苦み抜いたラザロ。この二人が死を迎え、ラザロは天使たちによって天に迎えられ、宴会の上席でイスラエルの祖で父と呼ばれるアブラハムと共にいます。その一方、金持ちは陰府<よみ・ギ語:ハデス>へ落され、炎の熱さに悶え苦しんでいます。金持ちが助けを求めた時、アブラハムは言います。「子よ、思い出せ。あなたは生きている時、良い物を享受し、ラザロは悪い物を甘んじて受けた。だから今は、彼は慰めを受け、あなたはもだえ苦しむ。両者の間には大きな淵が横たわり、行き来できないのだ」。そこで金持ちは、もう取返しがつかないと諦めますが、家族が自分のように苦しむことがないように、ラザロを生き返らせて家族の前に遣わして欲しいと懇願しました。するとアブラハムは答えます。「もし、モーセと預言者〈神の言葉・聖書〉に耳を<今>傾け〈て信じ〉ないなら、たとえ死者が復活する姿を見てもその言葉を信じないだろう…」と。主がこの譬え話を語られた目的は、第四の登場人物である私たちの、今与えられた人生で、良き選択を選び取るためでした。「一人も滅びることなく、永遠の命を得るため(ヨハネ3:16)」に。
主イエスが示されたこの真理は、約束の聖霊が弟子達に注がれた日、ペトロが群衆に語ったメッセージの中に詩編16篇7-11節を引用し、解き明かされていきました。「あなたは、わたしの魂を陰府<墓穴>に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる(使徒2:27-28)」。主なる神の願いであり、聖書全体に貫かれる福音は、人間が滅びと死に至る道でなく、永遠の命に至る道を歩むことです。ですから主イエスの福音を聞く者は、昔も今も、自らの生き方を振り返り、選び直すチャンスが与えられます。そして、愛する者が地上から取り去られる「死」が突き付けられた時も、魂に問いかけられるのです。「あの金持ちのように自分のためだけに与えられた恵みや財産を用い、後悔するのか? それともラザロのような隣人と共に恵みを分かち合う生涯を喜び生きるのか?」と。
イエスの十字架の死の意味をペトロの説教(使徒2:14-36)を通して聴き終えた群衆は心を打たれ、こう応答しました。「わたしたちはどうしたらよいのですか」。そこでペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受け、罪を赦していただきなさい…」と勧めます。なぜならペトロは、イエスを主と告白して救いの宣言を受けた時の主の言葉が彼の心に蘇っていたからです。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける…(マタイ16:18-19)」と。何よりも主イエスは十字架の死と復活を通して、神と人の大きな隔て・淵を取り除き、私たちが陰府や地獄に行くのではなく、天の御国へと導いて下さいました。
葬儀をキリスト教式で願う人は教会で挙げられます。けれども、「召天者」と呼び、天にある希望を語れるのは、イエスの御言葉に生前聞き従うことが許された方々です。それは決してその人の善い行いの結果ではなく、ただ主の十字架の死と復活が私の罪のためだと信じる信仰よって…。先に召された方々を覚えるこの日、神の愛の言葉に耳を傾け、人生を選び直せること。これこそが神の奇跡です。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16:26)。