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ライブ礼拝
須藤 伊知郎

常盤台バプテスト教会 2021.9.12 主日礼拝 「信仰とは、生きることそのもの」 西南学院大学神学部 須藤伊知郎教授 【ローマの信徒への手紙3章21~26節(聖書協会共同訳)】


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏           奏楽者
招詞           司式者
祈祷           司式者
賛美  519番 信仰こそ旅路を 1、3節 
聖書  ローマの信徒への手紙3章21~26節
特別賛美演奏  "神のみ名によりて"      奏楽者
宣教  「信仰とは、生きることそのもの」須藤伊知郎教授(西南学院大学神学部)
祈祷
賛美  614番 主よ 終わりまで 1、4節 
献金感謝         司式者
祝祷
後奏
宣教概要
「信仰とは、生きることそのもの」
西南学院大学神学部教授 須藤伊知郎

 2018年に出版された『聖書協会共同訳』では、ローマ書3章22節の従来「イエス・キリストを信じることにより」と訳されていた箇所が、「イエス・キリストの真実によって」と変更されました。この新しい読み方で3章21〜26節を解釈すると以下のようになります。
 21 しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。
パウロの見方では、救いに到達するのに、律法を通るのとイエス・キリストを通るのと、二つの道があります。そこで、「律法を離れて」、律法なしで、律法を通るのとは別の仕方で、神の義が明らかにされました。「律法と預言者」、すなわち聖書によって証言されて。「神の義」とは、神が、人の罪のゆえに破れてしまった神と人の関係を創り変えて、正しい関係にしてくださる義のことです。
 22 神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。
イエス・キリストにおいて神が私たちを義としてくださった出来事が起きました。それはイエス・キリストが神に対して信の姿勢を貫き、信実であり続け、従順であったからだ、ということです。そのイエスの姿勢に倣って信の姿勢をとる者には、ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、すべての人に、この神の義が顕とされるのです。神がそれを示してくださいます。
 この「神の義」の「神の」が主語を表している主格的属格であるということを発見したのが、マルティン・ルターの宗教改革の大発見でした。彼以前の中世のスコラ哲学では、神の前で人間が努力して義しいと認められる義、と理解されていました。そうではなく、神が何の功績もない人間を義をしてくださる義です。その意味で、この「神の義」は「神の救い」とほとんど同じ意味になります。
 23人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、24キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。
人が神に背いて、神との関係が破れてしまった結果、神の栄光を反映することができなくなっているのですが、キリスト・イエスがその破れ、罪を贖って、和解の状態を打ち立ててくださったので、人は神の恵みによって一方的に神との正しい関係に入れていただける、すなわち義とされるのです。
 25神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。
イエスは十字架の死に至るまで神に信実を貫き、従順でした。神はこのイエスの死の出来事によって、神殿の贖罪の蓋が清められて、神の臨在の場、神と民が出会う場として更新されるように、神と人とが出会う場を新たに設けられました。その意味で、イエス・キリストは贖いの座にたとえることができます。
 26神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。
神はイエスの信の姿勢に倣い、神の信頼に応えて、信実なあり方、信の姿勢を保つ者を義としてくださいます。信じて、つまり、神との信の関係に入れられて、イエスの後に従う者としてくださるのです。
 私たちも、神への信を貫いたこのイエスの後ろに付き従って、一歩一歩、歩いてゆきたいと思います。