礼拝
渡部 信
常盤台バプテスト教会 2021.9.26 主日礼拝 「十字架の癒し」渡部信 牧師 【民数記21章4~9節(新共同訳 旧約P.249)】
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 561番 主を愛す友よ来れ(A) 1、2節
聖書 民数記21章4~9節
特別賛美演奏 "十字架のかげに" 奏楽者
宣教 「十字架の癒し」渡部 信牧師
祈祷
賛美 223番 主イエスは尊き(A) 1、4節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- クリスチャンの信仰のシンボルと言えば十字架がすぐ頭に浮かんで来ると思います。救いの入り口は十字架とすると、出口は復活の希望です。この両方を正しく理解するとき、十字架が「救いのシンボル」となるでしょう。
ある一人の女性が、人生の困難に直面して信仰を求めて来ました。そして「家に置く十字架が欲しいのですが。それもイエス・キリストが磔刑にかかっている姿の十字架が欲しいのです。デザインがスマートでなく、キリストが十字架にかけられ死んでくださっているリアルな磔刑の十字架を求めることができますか」。おそらくその十字架にかかるイエス・キリストの姿が、彼女にとって救いとは何か、救いの希望を見出したいと願ったのでしょう。
苦しい時に、普通、楽しいことを求める人は大勢いると思います。嫌な思いを忘れたい。もっと明るく生きよう。そして不安を打ち消して大丈夫だ。仲間もいるし大丈夫だ。しかし、そのように思う平安はいつまで続くのでしょうか。栄光盛衰と言って状況が変わった時、人々はどう行動するのでしょうか。そこには継続的な平安はありません。にっちもさっちもいかなくなると、かつての絆は失われます。各々が自分自身で対処していかなければなりません。本当の平安とは、どのような状況でもそこに救いの確信を持つことができなければ存在しないのです。その女性の方は、かつて友達もたくさんいました。でも、次第にマスコミにたたかれ、周囲の人々も離れ去り、人生のどん底に陥った時、本当の魂の救いを求めて来たのです。
今回は、新型コロナウイルスの感染拡大が起こり、これも以前は元気だった人だったのに、この困難な状況に陥り、不安を抱えておられる方が大勢いらっしゃるではないでしょうか。自分は大丈夫だと思っていても、誰もが前と同じように物事をうまく乗り切るとは限らない。一人ひとりがこの困難な状況をどう乗り越えるのかが問題です。
旧約聖書の民数記には、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から脱出するために、指導者モーセによって出エジプトの様子が書かれていますが、それは百万人ともいわれるイスラエル民族がシナイ半島を徒歩で現在の祖国に戻るという民族の大移動で、持ち物は旅支度だけです。食べ物も日ごとに賄わなければなりません。そして既に帰る場所にも先住民がおり、誰も住んでいない荒野に天幕を張りながら長年の生活を強いられたのです。そこでイスラエルの民は指導者のモーセに不満をもらしました。奴隷でもいいからエジプトの生活の方が良かった。こんな荒れ野で苦労はしたくない。このイスラエルの民を奴隷から救い、導かれようとした神は、これらの人々のわがままを聞き、炎の蛇を送られたと書かれています。この炎の蛇がどういうものなのか詳しくはわかりません。ただこの蛇にかまれると人は毒で死んでしまう。そこでイスラエルの民は、自分たちは感謝もせずわがままでしたと悔い改め、モーセに救いを請います。そうしますとモーセは青銅でできた炎の蛇の形をした物を造り、竿の先につけ掲げました。その竿につけた蛇の像を見た者は、蛇にかまれても、死なずに生き延びることができたということです。
この竿に蛇を掲げた形は、そのまま西洋では薬局や救急車のマークになっておりまして、新型コロナウイルス感染で身近に知られるようになったWHO世界保健機関もこの竿につけられた蛇がロゴマークとなっているのは、この聖書の箇所に由来しております。どうして死に至らしめる蛇が、逆に救いをもたらすシンボルになったのか。これはあくまでも蛇は癒しの象徴で、炎の蛇を造って拝めば病気がなおるという偶像礼拝を勧めているものではありません。ここに災いから救われるということはどういうことかという比喩が隠されている。皆さんがご存知のようにコロナウイルスから救われるためには、どうしたら良いのでしょうか。逆にコロナウイルスを一度体験すれば二度目は助かるという免疫療法を現代の医学が証明した故に、わざとコロナウイルスのワクチンをうつことによって、コロナウイルスは滅びのシンボルだけではなく、微量のコロナウイルスはその滅びから救いのシンボルとなります。
新約聖書のヨハネ3章11節には、この竿の蛇をつけたモーセの物語に関して、イエス・キリストは直接この蛇を引用され「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と語り、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と続いています。
この意味は、モーセが蛇を竿につけて救いのシンボルとしたように、キリストが罪ある人の子の姿になり、罪人のように十字架にかかることによって、罪からの救いを完成させる。そして誰でも罪によって滅びにあるものが、この十字架にかかったイエスの罪を償い、贖ってくださっている姿を見るとき、その人の罪が清められ、救う十字架になることを、人々に諭すために今日の聖書の箇所を引用されたのです。死に定められるべき十字架が、人の罪を贖う救いの十字架のシンボルとなった。これが、私たちの信じる神がご用意くださった救い、またキリストを救い主として信じる救いの入り口になりました。