礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2023.1.22 主日礼拝 主イエスの許に帰ろう⑫「祈り求めるものは、すべて既に」友納靖史牧師【マルコによる福音書 11章12~25節】(新共同訳 新約P.84~85)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編 65篇2~3節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生430番「しずけき祈りの」1,2,3節
献金感謝 司式者
聖書 マルコによる福音書 11章12~25節
特別賛美 新生435番「山辺に向かいてわれ」1,4節
宣教 主イエスの許に帰ろう⑫「祈り求めるものは、すべて既に」友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生300番「罪ゆるされしこの身をば」
頌栄 新生672番「ものみなたたえよ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 主イエスがこの世に救い主として遣わされた目的の一つに「回復」がありました(ルカ4:18)。第一は、神と人との関係性の回復(マルコ11:12-14・20-26)。第二に神の神殿(宮)が真の役割を回復すること(11:15-19)で、この二つが棕櫚の主日(受難週初日)、エルサレム入場直後に主によって宣言されたのです。
第一に、神と人との関係回復のために用いられた譬えは、“いちじくの木”(イスラエル<神の民>の象徴(ミカ7:1他)でした。本来いちじくの木は、豊かに果実を実らせる役目を与えられていますが、当時の神の民は救い主・イエスが目の前にいるにも関わらず、イエスの言葉を信じ、信仰の実を結ぶことができない状態でいました。主イエスはその日、葉が茂っただけのいちじくの大木を見て、悲しみ嘆き、深い信仰的メッセージを弟子たちに伝えたのです。いちじくの木は夏と秋に実をつけますから、主が受難の道を歩まれたこの時季(春)には当然、実がなるはずはありません。つまり主イエスが嘆かれたのは(人々は主が呪ったと誤解した)のは、木そのものではなく、神の民らが神に備えられた本来の姿で留まっている(信仰の実を結ばない<救いを得る>状態)への悔い改めの促しであったのです。翌朝早く、主は再びその木が根元から枯れている姿(神の目的に沿わない生き方をした人間の末路)を見られ、「神を信じなさい。…だから言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と語られました。主イエスの言葉と行為とを、人間の目で表面的に判断せず、神の霊的な意味を理解し(視力を回復し)て生きる人生の大切さが語られます。各自が神より与えられた生きる意味・人生の目的を知って歩む時、神との関係が修復され、私たちも喜びと平安が回復し、救いの喜びに満たされるからです。
第二に神の神殿(宮)の回復(ゼカ6:12-13)です。これは今日におけるキリストの教会(建物ではなく、そこに集う信仰共同体)が、本来の神が願う役割を果たすため、主イエスはこの宮清めをなされました。当時、人々が宮詣をしていた最大の理由は、自らの罪の赦しを乞うため、動物を犠牲として神に奉げるためです。ところが、旧約時代からのこの信仰的儀式を利用し商売を行い、私腹を肥やす人々に主イエスは憤り、商売道具をひっくり返して、本来の姿に立ち帰る(回復する)ことを促されたのです。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』」(イザヤ56:7)と、純粋に神のみ前に悔い改めて祈ることで十分だと宣言されます。それは「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊(詩編51:19)」であると共に、主イエスご自身がこの後、十字架で燔祭(焼き尽くす動物の犠牲)となられ、すべての人の罪を完全に贖われ、赦しを完成する前触れともなりました。この主イエスの愛の犠牲によって私たちはもう動物も自らも犠牲にする必要がなくなったことこそが福音であり、この視点で生きる信仰の回復が今も求められています。
「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と語られた主イエス。これは私たちの人生における必要すべてを主なる神がご存知であり、それらを与えてくださることを信じて祈れと教えられます(ルカ12:29-32)。「人を赦すことが難しい」と悩み、神に祈る時、主イエスにあって私自身が赦され、又その相手も同じ主の恵みの中に置かれていることに気づかされ、見ていたものすべてに希望の光が注がれることでしょう。こうして「神よ、〇〇を与えてください」から、「主なる神よ、必要のすべてを私にお与えくださることを感謝します」との祈りに変えられ、神と人とのすべての関係が回復する平安で満たされていくのです。
「たとえ遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、
遅れることはない」(ハバクク2:3)。アーメン。