礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2023.10.8 主日礼拝 実を結ぶ人生⑩「聖霊の導きに従う平安」友納靖史牧師【ガラテヤの信徒への手紙 5章16~25節】(新共同訳 新約P.349~350)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ヨハネによる福音書 14章25~27節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生435番「山辺に向かいてわれ」1.2.4節
献金感謝
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章16~25節
特別賛美 教団496番「うるわしの白百合」
宣教 実を結ぶ人生⑩「聖霊の導きに従う平安」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生261番「み霊なる聖き神」1~3節
頌栄 新生668番「みさかえあれ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 乾いたパンの一片しかなくとも平安(シャローム)
があれば、いけにえの肉で家を満たして
争うよりよい(箴17:1)」。
人生において「シャローム:平安・平和」は、老年期のみならずどの世代においても欠かせません。「平安」は神が人間に与えると約束された恵みですから、私たちは恐れず希求してよいのです。けれどもそれが、どのようにして与えられるのかと私たちは苦悩しているのではないでしょうか。
使徒パウロは「霊〈聖霊〉の導きに従って歩みなさい(ガラ5:16)」と、その問いに応えます。「霊の導き」ではなく私たち人間は〈肉:サルクス〉に支配されて歩む危険性を提示し、いかにしてそれを回避するかの秘訣を彼は記します。「霊に導かれる」とは日本で死者や(悪)霊が人に憑依し、理解を超えた指示を告げるものとは違います。神の霊が異言を通して語ることもパウロは記しますが、何よりもパウロが教えたかったことは、人間の感情や願望という〈肉〉に従う人生ではなく、聖なる「神の言葉」と「神の計画」に私たちが耳を傾け従う時、神ご自身(聖霊)が私たちを導く平安に満たされる喜びを告げたのです。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは(聖霊なる)神です(フィリ2:13)」。
パウロが「肉の業」を語る時、主イエスの教えた言葉が心にあったに違いありません。「人から・・・つまり人間の心から、悪い思いが出て来る・・・みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す(マル7:20-23)」と。ですがそれだけで収まらない程、人は人に言えない肉の思いを多く抱え「私は本当にこれで良いのか…」と存在への不安は尽きません。そこで人は、律法や宗教的戒律に忠実に従うことで「私は大丈夫」と思わされるトリックに昔から捕らわれ不自由にされて来たのです。ですから主イエスは、またそれに従うパウロも、肉と律法に従う人生ではなく、神の聖霊に導かれ、自由に生きる喜びと真の平安を得て、永遠の希望に生きる道を示されたのです(ヨハ14:15-27)。パウロはそれを「霊の結ぶ実」に譬えました。つまり果樹の木に実がなるために人がなすべきことは、善き土壌を整え、害虫を取り除く人の営みも大切です。ですが太陽の光や水とが適度に注がれるのをただ見守り、時と共に果実の収穫を迎える出来事に思いを馳せたのです。私たちの人生も実は「霊の結ぶ実:愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制」とは神が与えるものであり、人間の努力ではなく、注がれる神の恵みであると教えます。天より注がれる自然の恵み、神の恵みをただ感謝して受ける秘訣を知る者こそ、成長成熟し実を結ぶのだと。
主イエスが語られた「闇と光」(ヨハ8:12)に重ねるとより明確かです。つまり人の弱さと罪の暗黒に留まる時、人は常に不安と恐れに支配されます。けれども神の光を受け入れ、その中に留まると暗闇は消え去るように、肉の思い・罪は消え去っていくのです。
ヘンリ・ナウエン著『老い・人生の完成へ』(教団出版局)の目次は実にシンプルです。
「闇へ向かう道としての老い」か、
それとも「光に向かう道としての老い」かと。そうです。私たちはただ主イエスの注がれた救いの光に向かって歩むことだけを祈り願う時、主ご自身(父・子・聖霊なる神)が私たちを整えてくださり、揺るぎない平安で満たしてくださるのです。御言葉の光の前に力を抜いて、たたずむ<礼拝する>だけで良いのです。これが聖霊に従う者の恵みです。
「わたしの平和(平安)をあなたがたに残し、与える…心を騒がせるな。おびえるな(ヨハ14:27)」