礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2023.6.18 主日礼拝 信仰の礎④「わたしでも救われますか?」森崇牧師【ローマの信徒への手紙 3章24~26節】(新共同訳 旧約P.277)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 箴言 3章1~6節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生62番「感謝 すばらしい朝」1.2.4.6節
献金感謝 司式者
聖書 ローマの信徒への手紙 3章24~26節
特別賛美 第一礼拝 「主イエス神の愛」
宣教 信仰の礎④「わたしでも救われますか?」森崇牧師
祈祷
賛美 讃美歌21 459番「飼い主わが主よ」
頌栄 新生673番「救い主 み子と」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- おはようございます。信仰の礎シリーズ4回目は「救い」についてです。
常盤台バプテスト教会の信仰告白には以下のように告げています。
4贖罪と義認
神は、処女マリアより生れし神の独子イエスを賜う程に世を愛し給う故に如何なる罪人もイエスの贖罪の死と復活を信ずる信仰によりてのみ全き救いを受け、永遠の生命に至る。これは神の恩寵のみによるものにして人の業にあらざるを信ずる。
救いとは何でしょうか。救いとは主イエスによって罪のゆるしと共に永遠の生命にあずかることです。このためには、「人は行いによらず、ただイエスを信じる信仰によってのみ人は救われ」(ロマ3:24)ます。このイエスは神の愛された独り子であって、神がすべての人々(世)を愛するがゆえにこの地上にお送り下さった方です。ヨハネによる福音書3章16節では「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」としています。ここには神の愛がすべての人に及ぶために、また一人も滅びることがないようにとの確固たる神の決意が述べられています。
御子イエスは「処女マリアより生まれ」ました。これは「聖霊によって身ごもり生まれた」(マタイ1:18、ルカ1:35)ということを暗示しているだけではありません。いわゆる人間の知恵や計画によらないで、このイエス様による救いの計画はただ神の恩寵(言い換えればめぐみ)によるものであって、どこまでも人間の思いではないのだということが強調されます。「人の業にあらざるを信ずる」という信仰の言葉には、イエスの聖霊による懐妊と出生から始まって、主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れること、また彼を信じて浸礼(バプテスマ)を受け,主の教会とともに歩んでいくひとつ一つの出来事もまた、人間の理解や納得を超えたところでそうさせていただく、神の計り知れない恵みと祝福の中でそうさせていただくという現れでしょう。
教会の信仰告白によれば「どんな罪びとでもイエスの贖罪(罪を贖うため)の死と復活を信じる信仰によりて全き救いを受け、永遠の生命に至る」としています。「どんな罪びとでも」とは罪の大小にかかわりなく、どれだけ自分の中に悔いや恥があったとしても、ということです。主イエスの十字架によってすべての罪とわたし自身とは贖われているという信仰と、主イエスは復活されたのだという信仰があれば救われるとしています。
なぜ十字架だけではないのでしょうか?それは、私たちの罪の贖い、わたしのために身をささげられたイエス様の死が、そのままにされないためです。主イエスの三日目の復活の出来事を通して、すべての罪びとと共なる御子イエスの歩みそのものが父なる神によって全肯定されるのが復活です。イエス様によって神の子とされた人々がもはや罪に死ぬのではなく、神ととともに、新しい命にあずかり、永遠のいのちー生き生きとしたいのちに生きるようになるために主イエスは復活されました。
本日の聖書個所は以下のように告げられます。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
ローマの信徒への手紙/ 3章 23-26節
すべての人は罪びとであり、また同時にすべての人はイエスによって義とされています。「義」とは「神に認められる/救ってくださる」との意味です。人々はイエス・キリストのこられる以前は神の忍耐により見守られていましたが、キリストがこの世に来られた時からは明らかな神の救いの時をもたらそうとされています。「今まで」と「今の時に」という対比の中で、私たちは「今この時に」主イエスの救いを受け入れ、神の義をわが身に受けつつ、新しく歩んでいくことが主から求められているのです。