礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2024.6.2 主日礼拝 人生を導く善き力16週目 神の家族②「愛を示す最善の方法」友納靖史牧師【ガラテヤの信徒への手紙 5章13~15節】(新共同訳 新約P.349)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ルカによる福音書 10章25~28節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生124番「この世はみな」
献金感謝
主の晩餐式 新生414番「マラナタ」
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章13~15節
宣教 人生を導く善き力16週目 神の家族②「愛を示す最善の方法」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生536番「燃え立つ言葉も」
頌栄 新生668番「みさかえあれ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「愛」の対義語は「憎」と表記されますが、聖書的には「無関心」です。使徒パウロは愛(アガペー)の定義を各書で様々語りますが、ガラテヤ教会へ愛を示す方法(5:6)とは『隣人を自分のように愛する』、この一句に尽きると宣言します(5:14)。これはレビ記19章18節と共に、主イエスが『良きサマリア人』の譬え(ルカ10:25-37)を語られた、ある律法学者との対話を通し教えられた出来事を重ねたのでしょう。愛とは隣人にどれだけ関心を寄せるかだと記します。
この譬えで主イエスは、強盗に襲われ死にかけたユダヤ人と遭遇した三名の示した「無関心」と「関心」を対比します。最初に神殿に仕える祭司が通りかかり、苦しむその人を見て、避けるように道の反対側へ立ち去りました。次に神殿に仕えたレビ人も、同様に立ち去って何もしません。ところが当時、ユダヤ人から差別され敵対関係にあったサマリア人は「その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」のです。更に翌日、宿屋の主人にデナリオン銀貨二枚を渡し「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言い残し、旅を続けたと。そこで主イエスは、そのユダヤ人律法学者に問います。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人となったと思うか」と。すると彼は「サマリア人です」と口にせず、「その人を助けた人です」と遠回しに答えます。そして主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と奨めました。ここで「同じように<愛>しなさい」との主の真意は、単に人を助ける行為に言及しただけでなく、サマリア人を差別したユダヤ人への不の感情を乗り越え、憐れみ深く関わった彼の「愛の決断」に注目するよう教えられたのです。
現在上映中の「関心領域 The zone of interest」は第二次世界大戦中、アウシュヴィッツ虐殺収容所の真横にあったドイツ人所長ルドルフ・ヘスの邸宅での安泰な暮らしが淡々と映され、その家族が戦後「あの家は楽園だった…」と証言記録に基づきます。塀一つ隔てた場所で想像を絶する虐待と死に置かれた人々に対し、全く無関心で生きられた人間の罪深さ、残虐性を突き付ける作品です。
聖書は新旧全巻を通じて、主なる神が人間に対して深い関心と関わりを持ち続けるお方だと証言します。その極みが「神が人となって世に生まれ、共に歩まれ、人間の罪を代わって担われた…ここに愛がある(ヨハ手紙一4:7-10)」との福音です。自分に興味のあること、家族・自らの民族などへの限られた範囲での関心しか持てない人間の限界。主イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ(マタ5:44)」と教えます。この愛とは決して敵を好きになれ(Like/Love)ではなく、相手に関心を持つ(interest)ことであり、その実践的行為が「祈り」です。主イエスが公生涯で迫害を受けた時、一人山に祈りに行かれた時、ゲッセマネの園、そして十字架の上でも主は祈りを通して愛を示されました。私たちも、互いに祈り祈られることによって関心領域を広げられます。「ヤベツの祈り※1」(歴代誌上4:10)での〝領土を広げる″とは正に愛の領域のことです。
パウロは「あなたがたは自由を得るために召しだされた。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とはせずに、愛によって互いに仕えなさい(ガラ5:13)」と告げます。それは、もし肉(の感情)が先立つなら、隣人を愛することは難しくなります。だからこそ祈りの力によって神の御心である愛<関心>を相手に示す決断力が注がれる必要があるのです。様々な感情のすれ違いを超えて互いに祈り合う関係の只中に(マタ18:20)、主の霊が豊かに働くことをパウロは知っていました。「主よ、隣人のために共に祈り合い、私の愛の関心領域と神の国の領土とを広げて歩ませてください。」