VIDEO

教会のビデオコーナー

  1. HOME
  2. 教会ビデオ
  3. 常盤台バプテスト教会 2024.7.21 主日礼拝 人生を導く善き力 21週目 神の家族⑦「教会の一致を守る」森 崇牧師【ローマの信徒への手紙 15章1~6節】(新共同訳 新約P.295)

礼拝
森 崇

常盤台バプテスト教会 2024.7.21 主日礼拝 人生を導く善き力 21週目 神の家族⑦「教会の一致を守る」森 崇牧師【ローマの信徒への手紙 15章1~6節】(新共同訳 新約P.295)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    コリントの信徒への手紙 二 9章6~9節    司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生362番「主のみ名を伝えん ハレルヤ」
献金感謝            
聖書    ローマの信徒への手紙 15章1~6節
特別賛美  
宣教    人生を導く善き力 21週目 神の家族⑦「教会の一致を守る」 森 崇牧師
祈祷
賛美    新生338番「よきおとずれを語り伝え」
頌栄    新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏
宣教概要
 聖書は信仰者の一致を非常に大切な事として告げています。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい…それはあなたがたが、一つの希望にあずかるように招かれているのと同じです」(エフェソ4:3-4)
「霊による一致」とは「一つの希望への招き」です。「一つの希望」とはイエス・キリストそのものであり、来るべき時に御子イエスの姿へと変えられる希望です。このために信仰者は霊による一致を保つ必要があります。聖書によれば「一致」とは「心を一つにする」ことです。
使徒言行録では聖霊降臨によって初代教会時代が始まります。「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし…毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り…こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」聖霊によって始まった信仰共同体は、聖霊によって一致が与えられ、神の国の福音宣教に生きてきました。本日は「教会の一致を守る」ために私たちにできることを共々に考えていきましょう。
 聖霊による一致を守るために出来ることの第一は献金です(使徒2:44-45)。これは私たちにとって驚くべきことですが、聖書が第一に掲げる要素の一つです。初代教会が誕生した当初、財産や持ち物をすべて、心から喜んでささげていました。それらのささげものを持って当時の信仰共同体は各自を支えていました。続く使徒言行録4章32節では「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだという者はなく、すべてを共有していた」とあります。奉献の在り方は「心の一致」と共に「思いの一致」も図られることとなります。しかし、その後にアナニアとサフィラは土地を売ったお金を誤魔化してささげました。このことは使徒によって見抜かれ、「あなたは聖霊を欺き…人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(5:3-4)と宣告されます。これは献金することを惜しんだからではなく、神に対する感謝や奉献の気持ちをごまかしたからでした。
一見、否定的な話ですが、肯定的な話はこうです。
献金とはすべてをなげうつ事ではなく、心から神さまに喜んで頂くために、出来る限りの自分自身を捧げることだ、と。

 使徒パウロは自分自身の神学の集大成とも言えるローマによる信徒への手紙の最後において、「キリスト者の一致」について次のように語ります。「私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(15:1)強い者とは信仰において成熟している強いキリスト者のことです。ここではパウロは教会の一致について、キリスト者の基本的なあり方について述べています。すなわち、「弱い人たちに視点を合わせること」と「キリストのように自分の満足を追い求めるべきではない」ということです。パウロは「強くない者の弱さ」とは信仰に入って間もない人、あるいは教会に来て人を見て躓いてしまう人、様々な葛藤や混乱を受けやすい人のことを指していると考えられます。様々な立場の人がおり、肉体的にも精神的にも弱い方々が教会にはおられる、そういう方々への配慮は教会にとってとても大切です。教会の一致を守るための具体は「噂話をしない」「非難ではなく励ます」「教会の牧師や指導者のために祈る」(21日目あなたの教会を守る)ことなどです。リック師は「教会の一致を守るというあなたの責任を真剣に受け止めてほしい」とわたしたちにチャレンジしています。
教会の一致を守る時、だれが一体弱い方なのか考える必要があります。その視点なしには強い者がさらに強くなり、弱い者は切り捨てられてしまいます。しかし、神の国の働きを担う教会は、常にイエス・キリストがなされたように生きます。主イエスは罪びとや徴税人、遊女、異邦人と呼ばれる外国人、病に弱った人、悲しみくれる人、手の萎えた人、足が弱った人、盲人、ろう者の方がたに寄り添われて生きられました。同じように教会はこの弱くされた人々に目を注ぎ、社会の中心にこの方々を据えてその視線を置いていくところに、主イエスの目指された神の国の実現があることを私は信じます。教会はこのイエスのまなざしがどこに注がれているのかを常に注視しながら共に生きていくところに、聖霊の導きと教会の一致があり、主の豊かな祝福が注がれていくのです。