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礼拝
森 崇

常盤台バプテスト教会 2024.9.22 主日礼拝 人生を導く善き力29週目 仕える喜び①「神の最高傑作として生きる」森 崇牧師【エフェソの信徒への手紙 2章7~10節】(新共同訳 新約P.353~354)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                
招詞    ヨハネによる福音書 9章1~3節    司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生19番「くすしき主の愛」
献金感謝            
聖書    エフェソの信徒への手紙 2章7~10節
特別賛美  「主はわが飼い主」  聖歌隊
宣教    人生を導く善き力29週目 仕える喜び①「神の最高傑作として生きる」 森 崇牧師
祈祷
賛美    新生633番「すべてを捧げます」
頌栄    新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏
宣教概要
 あなたは神の最高傑作として造られました。神さまは私たちを世界にただ一人、唯一の存在としてお造りになられました。土の塵で人を形作り、陶器師が粘土をこねて一つひとつの作品を造るように、神の御手による創造の業が、私たち自身です。私たちは神に似た者として、そして互いに関わる存在として造られています(創2:4、1:27)。私たちを造られた神さまの目的は以下のように告げられています。「わたしたちは神の作品であって良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は私たちが良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである」(エフェ2:10口語訳)「良い行い」とは「神に仕える」ことです。私たちは仕えるために神さまによって造られています。
最初に創造されたアダムはただ単にエデンの園に住んでいただけではなく、「耕し、守る」ことが彼の働きとして与えられました(創2:15)。アダムはエデンの園の管理人として被造物に仕えることを神さまから委ねられました。預言者エレミヤは母の胎内にある時から預言者として神に仕える人生に招かれていました(エレ1:5)。神は私たちを仕える人生へと招き、ご自分が考えておられる働きに召しておられます。
 多くの人々は自分の人生を自分の目的のために用いようとします。しかしそれでは本当の人生の豊かさにたどり着くことができません。神さまが創造された自分の形を知り、何のためにわたしが造られたのかを知ることによって人生をより豊かに生きることができます。神は私たちを神と隣人とに仕えるためにお造りになられました。そしてイエス・キリストにおいて一人ひとりを選ばれました。8節には「事実、あなたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく神の賜物です」とあります。私たちの行いが良いから救われるのではなく、ただただイエス・キリストが私たちを愛するためにこの世に来てくださり、その恵みを現わしてくださり、これを信じる信仰によって(すでに)救われました。もはや私たちはイエス・キリストの存在によって神のものとされ、過ちと罪を犯す人生から解放されて(エフェ2:1-3)、神の栄光を顕すために生きています。
 救い主イエスは十字架への道行きの前に、「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マコ10:45)と言われました。イエスさまは仕えられるためではなく、人々に仕えるために来られました。私たちは通常、仕えてもらうことが染みついています。イエスさまが仕えるために来られたというのは、イエスさまが仕えてくださっているから、私たちは仕えなくてもよいと考えるでしょうか。誰かが「代わり」に仕えるから大丈夫と言うことをイエスさまは告げたのではもちろんありません。これは多くの人「のためを思って」仕えられたのです。即ちイエスさまは多くの人々のためを思って仕えるが、あなたがたはどうするのか、と言う反問を私たちに投げかけます。
 「身代金」は別の訳では「あがない」、「献げる」は「与える」と訳される言葉です。主イエスのいのちが十字架にて献げられることは、私たちの存在が神のものとして買い戻され(=あがなわれ)ることを示していました。私たちが罪の奴隷として五体を不義のために用いるのではなく、神のものとして神に仕える義の生き方を現わすために。
イエスの十字架のあがないは主イエスに倣い、主イエスの生き方を私たちが得るためです。「仕えられるためではなく仕える」ために、そして「自分のいのちを与える」ために。「仕える」とは「与える」ことです。その生き方を十字架に至るまで示してくださっています。イエスは私たちに仕えるためにこの世に来られ、また私たちが同時に主イエスのように「仕え」「いのちを与える」生き方へと
今、招いて下さっています。