礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2025.5.18 主日礼拝 ヨハネ福音書講解②「新生の浸礼、知らずして」森崇牧師【ヨハネによる福音書 1章19~28節】(新共同訳 新約P.163~164)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 エフェソの信徒への手紙 5章8節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生81番「父なるわが神」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 1章19~28節
特別賛美 「しあわせそうに」聖歌隊
宣教 ヨハネ福音書講解②「新生の浸礼、知らずして」 森 崇牧師
祈祷
賛美 新生544番「ああ嬉しわが身も」
頌栄 新生673番「救い主 み子と」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- ヨハネ福音書講解シリーズ二回目は、洗礼者ヨハネの証しです。彼はらくだの毛衣を着、蝗と野蜜を食べものとしていました。彼はユダヤの荒野で宣べ伝え、「悔い改めよ天の国は近づいた」と語りました。「するとエルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受け」ました(マタ3章)。
「悔い改めのバプテスマ」は衝撃的な運動でした。神の民として選ばれ、救われるべき存在として律法を守って生きてきた信仰者達が、今のままでは罪の故に滅びることになると彼の説教を通して気づき、本来外国人が入信の際に受けるべき洗礼を、ヨルダン川の冷たい流水の中で次々と沈めの浸礼を受けました。ある神学者は「溺死礼」と表現するほど衝撃的な行為でした。浸礼は「信仰者の(再)洗礼」を意味していました。それは差し迫った神の怒りと裁きを前もって受け、罪に死んで義に生きることを目的としたものでした。彼はヨルダン川の向こう側、べタニアでバプテスマを授けましたが(1:28)、これは神の民が約束の地に入る前の場所を意味しており、神の国に備えるためです。
本日の聖書個所では「あなたは誰か」との質問から始まります。ヨハネは「私はメシアではない」と宣言しました。「ユダヤ人たち」とはヨハネ福音書ではエルサレムにいる敵対者の総称です。人々は自分たちを救ってくれるメシア(油注がれた者)=キリスト(救い主)を待ち望んでいました。大勢に浸礼を施すこの人がメシアなのか、と考えたのでしょう。彼の答えは、単なる否に留まりません。やがて現わされるキリスト・イエスは「私がいのちのパンである」「私が良き羊飼いである」「私が復活であり命である」とエゴーエイミ(ギ語:私こそは~である)(4:26,6:35,10:11,11:25,14:6)を用い神的自己表現をされました。彼はこの言葉を先駆的に用い、「わたしはメシア(ギ語:キリスト)ではない」と信仰告白をしました。「公言して隠さず…」「言い表した」(20)は法廷の場における証言であり強い意味を持ちます。
このヨハネ福音書のプロローグ(序章)において洗礼者ヨハネが最初に「私こそは救い主ではない」と告白したことには大きな意味があります。それは、全ての人間の真理です。誰も自分で自分を救い得ず、他人をまことの命へと導くこともできません。「私は神ではない」その積極的な言葉こそ、まことの救い主(キリスト)イエスを受け入れる言葉なのです。
続く問いには「エリアなのか/預言者なのか」との質問が続きます。エリアはかつて活躍した預言者の再来が信じられ(マラキ3:23)、またモーセのような偉大な預言者が再来されることが信じられていました(申18:15)。そのどちらの問いにも否を答えた彼に人々は何の権威でこれを行うのかと問います。彼は「わたしは荒れ野で叫ぶ声である『主の道をまっすぐにせよ』」(イザ40:3)と答えました。主の到来に備えるように、告げる一つの声に過ぎない、と告げます。王が到来した後に人々が行き来するようになり、その道は平らにされ、平易な道となりますが、その王が来られる前の備えをせよとの声に過ぎないということです。彼にとって、その王であり、主である方はイエスであり、その方を迎えるために彼は荒れ野にてこの働きを担ったのです。
私たちは何のためにバプテスマを受ける/受けたのでしょうか。天国に行きたい。地獄には行きたくない。家族と同じ信仰に立ちたい。シンプルに救われたい。人の思いは様々です。洗礼者ヨハネの浸礼は、罪の悔い改めと共に、やがて来る主と天の王国に備えるためのものでした。キリストが到来された今、教会がバプテスマを施すのは主に結ばれる為です。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ロマ6:3-4)
キリストの名によって頂くバプテスマは、罪の赦しと共に復活のいのちを与えます。私たちのこの身がバプテスマによってイエスと共にイエスに従って生きる人生へと変えられている幸いを共に公言していきましょう。