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礼拝
友納靖史

常盤台バプテスト教会 2026.10.4 主日礼拝 「神はあなたを決して忘れない」友納靖史牧師【イザヤ書 49章14~16節a】(新共同訳 旧約P.1143)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏             
招詞    マタイによる福音書 25章34~36、40節b   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生124番「この世はみな」
主の祈り
献金感謝
主の晩餐式 「ひとつの聖霊」
聖書    イザヤ書 49章14~16節a
宣教    「神はあなたを決して忘れない」  友納靖史牧師
祈祷
賛美    新生507番「主の手に委ねて」
頌栄    新生673番「救い主 み子と」
祝祷
後奏
宣教概要
 「私たちが神を忘れても、命を与えられた神がその人のことを忘れることは決してありません」。これが今日の中心メッセージです。イザヤ書は「第五福音書」と称される程、救い主(メシア)の到来、それもその方がキリストなるイエスであると特定できる詳細な予告と希望を語っていました。インマヌエル預言「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生む」(7:14)、苦難の僕しもべ預言「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53:5)など、イザヤが預言者という以上に、福音記者(エヴァンゲリスト)と呼ばれるに相応しい希望の福音が発信されます。

第二イザヤと呼ばれ、紀元前6世紀中頃、バビロン捕囚から解放される直前に与えられた今日の預言。神に無条件で赦された民が、どれだけ不信と不平を口にしても、神は忍耐強く真実なお方であるかが証しされます。シオンの〈捕囚によってエルサレムを追われた〉人々は「主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた」(49:14)と嘆きました。これは、年を重ね、役割から離れ、独りで時を過ごす老齢期にも、同じように感じる魂の痛みと重なるようです。それに対して主は力強く応答されました。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の生んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(:15)と。これほどの慰めと愛に満ちた言葉はありません。

主は続けて語られます。「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」(:16)と。正にこれは後に開示さる「苦難の僕」預言のように十字架で釘づけされた主イエスの愛の犠牲の先取りと言えます。どんな方法をとっても神は私たちのことを決して忘れること、見捨てることもされない救いの確約を与えられた私たち。自らの心身が弱くなり年老いても、驚くべき神の愛と救いの約束の中に生かされ、真の平安が与えられます。

脳梗塞により左半身不随で入院し寝たきりの母がこの数カ月、息子の私を見て「あなたはどなた?」と言う日があります。ですがその母に、「神さまはお母さんのことを忘れることは絶対にないから安心してね」と言った時、母は「有り難いね…」とベッド上で答えたのです。真の神を信じる者として体や弱っても魂は輝ける幸いを感謝しています(コリ二4:16)。

主イエスは世の終わりについて語られた時、すべての国の民が主イエスの前に集められ、二つに分けられる様子を語られます(マタ25:31-46)。そこには父なる神に祝福され、天地創造の時から既に用意された神の国を引き継ぐことを選ばれた人々が驚く姿があります。それは、「あなたたちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と主からの感謝の言葉をかけられても、その人たちに善き業を行った自覚がなかったからです。すると主は更に語ります。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。つまり、意識することなく悲しみ苦しみの中に置かれた方々に自然体で関わった業の一つ一つを、主なる神は決して忘れないお方なのだと。これこそが隣人愛、相互牧会の原点ではないでしょうか。

今、私たちは年を重ねつつも、まだ自らの決断で意識し行動できる幸いな時を過ごしています。私たちは驚くべき神の愛と恵みによって赦され、救われ、永遠のいのちを与えられています。それをただ受けて終わるのではなく、今この時にこそ、それぞれが出来る精一杯の愛の関りを隣人に対して分かち合う〈=貧しき者となる〉時、天の御国において、主なる神からのお褒めの言葉を頂ける以上の「幸い」はないと信じます。今、地上でこの時(礼拝や交わりを含め)を共に過ごせる恵みに感謝しつつ、平安と喜びの中で年を重ね、「永遠のいのち」の道を歩んで参りましょう。

「幸いなるかな貧しき者よ、

   神の国は汝らのものなり」(マタイ5:3文語)