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礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2026.2.8. 主日礼拝 ヨハネ福音書講解㉘「今、開かれる希望の灯(ともしび)」森崇牧師【ヨハネによる福音書 9章24~41節】(新共同訳 新約P.185~186)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                 
招詞    テモテへの手紙二 1章10~12節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生3番「あがめまつれ うるわしき主」
主の祈り
献金感謝
聖書    ヨハネによる福音書 9章24~41節
特別賛美  ”ああ感謝せん” 聖歌隊
宣教    ヨハネ福音書講解㉘「今、開かれる希望の灯(ともしび)」  森 崇牧師
祈祷
賛美    新生585番「救いの主よ」
頌栄    新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏
宣教概要
 本日の聖書箇所は、かつて盲人であった人がユダヤ教の指導者たちに呼び出され、裁判の証人として立たされています。彼はつい先ほど、主イエスに生まれつきであった盲目を癒してもらいました。彼は神殿の境内の中で乞食をして生き延びていました。生まれつき盲であったこの人は、親の顔も見ることが叶わず、幼いころから常にだれかの手助けを必要としながら生きてきました。それに加え、当時、生まれつきの盲人は重い罪がこの人にあるからそうなっているのだと考えられていました(9:2)。
ユダヤ教の指導者たちは言います。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちはあの者が罪ある人間だと知っている」裁判では証人として立つとき、神と人との前で嘘はつかず、公正に語ることを誓います。この時、彼らは「神の前で正直に語りなさい」(直訳:神に栄光をあらわせ)という言葉を持ってイエスの律法違反の告白をせよと求めました。「罪ある人間だと知っている」とはイエスが安息日に治癒を行った律法違反のことでした。
しかし、彼は言います。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)彼は力ある権力者の前に弱い存在として、もはや立っていませんでした。主イエスにより開かれた目を持って、イエスとは誰か/イエスを貶め入れようとしている権力者たちをひとりで見つめています。そこには恐れはありません。「主イエスは罪びとなどではない」「あの方は私の目を開かれた、その事実だけをわたしは知っている」と告白しました。彼は主イエスとの出会いによって変えられました。主イエスは9章の始まりにおいて「神の業がこの人に現れるためである」(3節)と言われました。第一の神の業は、変えられた人生です。開かれた目を持って彼は生きました。第二の神の業は彼がその救いに応答して、主イエスを証しし、その信仰を告白したという事です。

「神は罪びとの言うことはお聞きにならないとわたしたちは承知している。しかし、神をあがめ、その御心を行う人のいうことはお聞きになります」(31節)
詩編にはこのようにあります。
「正しい者が助けを叫び求める時、主は聞いて、彼らをその全ての悩みから助け出される」(詩編34:17口語訳)
「もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。しかし、まことに神はお聞きになり、わが祈の声にみこころをとめられた。神はほむべきかな。神はわが祈をしりぞけず、そのいつくしみをわたしから取り去られなかった。 (詩編66:18-20口語訳)
彼は詩編にある「正しき者」として主イエスを受け入れ、「罪人」ではなく「神の義を実現するもの」として主を証ししました(33)。
彼らは彼を差別して生まれながらの罪人と呼び、彼を追い出しました。すなわち、ユダヤ教のコミュニティから彼を追放しました。主イエスは追い出された彼をすぐに見いだし、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。
「人の子」とは主イエスご自身を指しますが、ヨハネ福音書においては特別な呼び名です。人の子とは「神のもとから来た/受肉した神の言葉と教えであり/数多くの奇跡をなし/十字架と復活の出来事の内に罪の赦しと贖いを成し遂げ/「わたしはある」と言われる栄光のキリスト」それが「人の子」です。私たちの願いを遥かに超えた神の臨在を示す「人の子」です。盲目であった人は「主よ、その人はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と問うと、主イエスは答えられました。「あなたはその人をもう見ている。あなたと話しているのがその人だ」と。「その人を見ている」とは「あなたはその人にもう会っている」という完了の言葉です。第三の神の業は、「人の子」が顕現されたことです。この人は「主よ信じます」と告白して主イエスを拝します。
人の子に対する希望は、主イエスと会ったその時に、信じたその時に、現実のものとして顕れます。信仰の今において、人の子を経験し、永遠を得るのです。それはつまり、ご自身を「わたしは世の光である」(8:12)と言われる主イエスが、まさに主の存在が見えなかった我々の前に現れ、主イエスの祈りによる奇跡の中で新しい希望の歩みを始められる信仰の今なのです。