礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2026.3.1 主日礼拝 ヨハネ福音書講解㉛「もう一度、行こう!」友納靖史牧師【ヨハネによる福音書 11章1~27節】(新共同訳 新約P.188~189)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 コヘレトの言葉 3章1~5、11節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生429番「主よ今われらの罪をゆるし(B)」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 11章1~27節
主の晩餐式 新生414番「マラナタ」
宣教 ヨハネ福音書講解㉛「もう一度、行こう!」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生244番「救い主にぞわれは仕えん」
頌栄 新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる(ヨハ11:25)」と語られた主イエスの言葉。これこそ福音の核心です。この時、主ご自身が“復活”そして‟命”だと言われた順番。それは、十字架の死の前に持っていた命(ギ語:プシュケー・地上の命)だとは言われず、復活された後に続く命(ゾーエ・永遠の命)であると強調され、イエスを主と信じる者は「死んでも(永遠の命に)生きる」と宣言されました。死に瀕していたラザロの許に駆けつける主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである…(11:4)」と言われます。それは、単に死なない(プシュケーの命が終わらない)と言われたのでも、復活の奇跡を予告したのでもありません。実はその先にある永遠の命に目を向けておられたのです。
私たち人間の視点と、主なる神が見ておられる視座とは異なっています。それが次の箇所でも明確です。マルタとマリアが病気の兄弟ラザロを癒してもらうため使いを出したその主への伝言は「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」でした。ここで発せられた愛とはギリシャ語:フィレオ(好きである・好む)でした。しかし福音記者ヨハネは5節で「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛して おられた」と語り、主イエスの愛はアガペー(無条件の愛)、つまり永遠の愛であり、人間の一時的な愛<フィレオ>ではないと明示します。更に主がラザロの許へ行く途中「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く(11:11)」と言われた時の「起こし(蘇らせ)に行く」も、実は主は既にラザロが死んでいたことを知っておられ、神の偉大な力をもって地上の命の復活のみならず、永遠の命の復活を視座に入れた言葉であったことを忘れてはなりません。
この時、主イエスは「神の御子」、いや「神」として、ご自分の存在を開示され、パリサイ派をはじめ熱心なユダヤ教徒から迫害され殺害される危機的状況下に置かれていました。この中で、ラザロを復活させる業を行うことは、更に大きな嵐を呼ぶことは目に見えていました。それでも、愛するマリアとマルタの切なる願いに応え、赴く決意がこの言葉に凝縮されます。「もう一度、ユダヤに行こう」と。主イエスは既にご自分の十字架の死を覚悟しておられ、なお今この地上にいる間、出来る限り神の御業を行うことを惜しまれませんでした。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ(11:9)」と語られ、主イエスのおられるこの今の時が陽の照る真昼であり、限られたこの時を恐れず共に働くことを弟子達に呼びかけたのです。
主イエスが今も、私たちに「もう一度、ユダヤへ行こう」と呼びかけられます。しかし私たちは目の前に見えている恐れと不安に目を奪われ、踏み出すことに躊躇してしまうかもしれません。賛美「主イエスのみ言葉そのまま聴きつつ従い行かん(新生429)」とあるこの「聴従の信仰」に至る力はどこから与えられるのでしょう。
黙示録には迫害を逃れたヨハネにパトモス島で主が幻に現れ、エフェソの教会に語られた言葉は正にこの私(たち)への呼びかけです。「あなたは初めの頃の愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めの頃の行いに立ち戻れ(黙2:4-5)」と。フィリオの限られた人間愛しかない者ですが、まず主イエスが無条件の愛で愛し赦されたそのアガペーの愛に再び触れ、神の恵みに立ち帰る時、自分たちの力では出来ないことを認め、悔い改め、祈り求めましょう。「主よ、あなたの声に聴き、素直に従う力を今日も、これからも与えてください」と。そして、困難を伴うことを承知の上で、主の御声に恐れず聴き従えますように。
「もう一度、行こう」
との主の声に…