礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2026.4.12 主日礼拝 ヨハネ福音書講解㉟「光りあるうちに」友納靖史牧師【ヨハネによる福音書 12章20~36節a】(新共同訳 新約P.192~193)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 イザヤ書 60章1~3節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生86番「輝く日を仰ぐとき」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 12章20~36節a
特別賛美 輝かせよう わたしたちの光
宣教 ヨハネ福音書講解㉟「光りあるうちに」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生660番「力と光の恵みの神」
頌栄 新生671番「ものみなたたえよ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 三浦綾子著「光あるうちに」。聖書だけでは福音を理解するのが難しい日本人への信仰入門書として、その最後にヨハネ12章36節の主イエスのみ言葉を記し、読者に訴えます。暗闇(罪)に生きる人生ではなく、光(イエス・キリスト)に触れた今、このチャンスを逃さず、光を信じ、光の中で歩みだしてください…と。日本中で話題となった小説「氷点」の中心的テーマ『原罪』(自らが罪人であることを知らない罪)を解説し、その罪を担われたイエス(光)を信じる時、光の世界へ導かれる喜びを「今この時」に信じ、歩み出して欲しいと訴えます。正に主イエスが当時の群衆へ訴えた思いを三浦氏は読者へ届けたのです。
ヨハネ福音書で用いられる「時」とは、主イエスが十字架で「死なれる時」、つまり人間の罪が神の御子なるイエスの犠牲の死によって赦され、罪と暗闇の縄目から解き放たれる時、救いの時を指します。しかし人間の目から見ると、死は悲しみや敗北にしか見えないことを主は分かっていました。そこで有名な譬えを用いて語られます。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ(ヨハ12:23-24)」。つまり土の中に蒔かれた麦の種そのものは死ぬけれど、そこには神の力が働いて新しい芽となり成長し、その穂には多くの種となる実が実る自然の法則と重ねます。これは神の御子の死を通し、私たち人間が新しい命、即ち「永遠のいのち」を受ける「神の栄光」の時が訪れた喜びに目を向けるよう宣言されたのです。
主は更に続けて「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る(12:25)」と教えました。これは自らの命を愛(フィリオ:自己愛)するが余り、失う(他者に与える)ことを恐れ、自らの人生(時)すべてを自分の為だけに用いて生きるなら、かけがえのない「永遠のいのち」を得るチャンスを失い、死が死で終わることへの警鐘でした。「自分の命を憎む」とは極端な表現のようですが、限られた地上の命や消えゆく目に見える財産に執着することがないように呼びかける主の隠喩(メタファー)でした。なぜなら私たちは目先の物に目をくらませられ、本当に大切なことが見えない弱さと罪(暗闇)を抱える者だからです。これは主が弟子達に語られたこの言葉と重なります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタ16:24-26)。
更に主は「ヨハネ福音書のゲッセマネの祈り」とされる27節以下でこの地上に来られた最大の目的を語られました。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」。それは、十字架で死んで人類の罪すべてを贖うためであり、人間イエスとして父なる神が喜ばれる選択、自らを犠牲にすることから逃れたいと悩み苦しまれたのです。この緊張感の中、主イエスは身を削り絞り出すように真理を告げます。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。・・・光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい(12:35-36)」。そうです。二度と地上において主イエスの言葉を直接聞き接し共に歩むことが出来なくなる、今しかない「時」の危機感を感じておられたからです。
私たちも地上における神の「時」を敏感に感じ取り、暗闇がこの世を襲う前になすべきこと、今しかできないと聖霊なる神に示されること、何よりも主イエスを信じ、従い、仕え奉げることを選び取って歩みましょう。そうです、「光あるうちに…」。