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礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2026.4.19. 主日礼拝 ヨハネ福音書講解㊱「闇にとどまらない」森崇牧師【ヨハネによる福音書 12章36 b~50節】(新共同訳 新約P.193~194)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                 
招詞    民数記 6章24~26節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    こどもさんびか121 番「ひかりのこになるために」
主の祈り
献金感謝
聖書    ヨハネによる福音書 12章36 b~50節
特別賛美  「初めにおられた 神のみことば」 平野範子
宣教    ヨハネ福音書講解㊱「闇にとどまらない」  森 崇牧師
祈祷
賛美    新生360番「喜びの日よ 光の日よ」
頌栄    新生671番「ものみなたたえよ(A)」
祝祷
後奏
宣教概要
  暗闇から響く声がします。それは主イエスの叫びです(44)。神の言葉として受肉したイエスさまはこれまで多くの奇跡を行ってきました。ヨハネ福音書では大きく四つの枠が存在します。序文(1:1-18)、第一部しるしの書(1:19-12:50)、第二部栄光の書(13:1-20:31)、結び(21:1-25)です。今日は第一部のしるしの書の最期となります。本日の聖書個所は第一部のエピローグ(本編の後に配置される「結び」)です。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と言われたイエスさまは立ち去って身を隠されます(36)。劇場の幕が下りて誰も見えなくなるようなものです。
 数多くのしるしを持って主イエスは神のことばそのものであることが示されますが、目の前で行われたのにも関わらず、この人々は主イエスを信じません(37)。37節の言葉は、わたしたちがどうであったのかが問われます。主イエスのしるしを見て、聴いて、わたしたちが信じたのかが。信じなかった人々の理由として、預言者イザヤは神が信じないようにさせたと告げます。ユダヤ教の議員たちの中にも信じる者はいましたが、議会を追放されるのを恐れて公に言い表す者はおりませんでした。これはつまり、心で信じるだけではなく、信じるのであれば、口で告白することが大事であるという事です。結局のところ、彼らは神からの誉れよりも人からの誉れを好んだとあります。神のまなざしよりも周囲の評価を大切にしてしまいました。そして幕が下りて言いようのない不安と沈黙があります。
 しかし、ここに主イエスの叫びが響きます。主の姿が見えなくなってから聞こえる叫びです。主の切なる思いが幕の内側から届きます。誰も闇に留まるな、わたしは光として世に来た、と。闇とは死であり、絶望です。神との交流がないことです。その闇を払うために主イエスは来られました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)ヨハネ福音書では「暗闇/闇」が五回記されます(1:5,3:19,8:12,12:35,39)が、これ以降は闇が言及されません。つまり、闇の終わりです。主イエスの光に照らされるために、主イエスの受難と十字架、復活の神の栄光が顕されるからです。主イエスは、この叫びにおいて二つの大切な事を伝えられました。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(47)「父の命令は永遠の命である」(50)主イエスは世を裁きません。人は絶えず、争い、人を裁き、戦争し、善と悪を決めようとしますが、主イエスは世を、そして人々の命を救うために来られます。主イエスがこの幕間から叫ばれた叫びは、主イエスが語られ、なされたことのすべては、神の思いからきているという事です。「私は私自身から語ったのではなく、何を話し、何を語るかは、私を派遣した父自らが私に命令を与えてきた。父の命令は、永遠の生命であることが私には分かっている。それで私の語っていることは、父が私に話してきたように、わたしはその通りに語っているのである」(49,50岩波訳)神の思いは永遠の命である、このことを顕すために主イエスはこの世に神の言葉としてこられ、そしてご自身を顕されます。
 私たちの闇はいったい何でしょうか。私たちの闇とは、恐れ、孤独、自己否定、罪悪感、将来への不安などがあります。しかし主イエスは隠された中で叫んでいます。見えなくてもイエスさまは語り続け、沈黙の中でも神の言葉は響いています。信じなかった人々に対しても、なお招き続けています。
 神の光の届かないところはありません。主イエスの光は、それらを暴くためではなく、照らし、癒し、導くために来られました。主イエスの救いはこれから始まります。絶望してはいけません。「成し遂げられた」(19:30)という十字架の主イエスの言葉に至るまで、闇に留まることなく、共に励まし合いつつ、歩んで参りましょう。