礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2026.6.14. ヨハネ福音書講解㊸「憎しみを超え、赦しへ」森崇牧師【ヨハネによる福音書 15章18~27節】(新共同訳 新約P.199)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 フィリピの信徒への手紙 2章5~11節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生230番「丘の上に立てる十字架」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 15章18~27節
特別賛美 ”来なさい 重荷を負うもの”
宣教 ヨハネ福音書講解㊸「憎しみを超え、赦しへ」 森 崇牧師
祈祷
賛美 新生551番「愛する主イエスは」
頌栄 新生671番「ものみなたたえよ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 人は誰でも、憎しみの心を持つ時があります。人はなぜ他者に対して敵意や憎悪を抱くのでしょうか。それは、自らの存在が根底から脅かされるので、自らの敵は排除する必要があるからです。憎悪が外に向かう時、人は他者を攻撃します。
主イエスは弟子たちに襲い来る憎しみがあることを隠さず告げました(18)。なぜ憎まれ、迫害を受けるかというと、すでに主イエスによって選ばれ、キリスト者とされた人々の希望の光を奪おうと、闇に属する世は攻撃してくるからです。キリスト者は絶えず世からの迫害を受けています。信仰を奪おうとする力は確実に働きます。しかし、恐れてはいけません。わたしたちには主の聖霊がともにあるからです。
「わたしが父の元からあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来る」(15:26)と主イエスは言われました。弁護者とはギリシア語でパラクレートス「助け主」(口語訳)(14:16,26,15:26,16:7)です。この助け主は信仰者の内に働き、「教え/思い起こさせ/証し/導き」ます。また「真理の霊」とはヨハネ独自の聖霊の呼び名です。真理に導き、真理を悟らせて下さいます。
ヨハネ福音書において「聖霊」とは明確な二つの意味があります。神の救いの働きが決定的に示される「聖霊」と信仰者の信心を支えるための「助け手/真理の霊」です。
「聖霊」はヨハネ福音書に三回しか記されません。イエスさまが罪びとの仲間としてこの世に降り、洗礼(バプテスマ)を受けてくださったとき(1:32–33)、また十字架にかかる前の食事の後、弟子たちに聖霊を送る約束をなさったとき(14:26)、また復活の主イエスが「聖霊を受けなさい」と息をふきかけてくださったとき(20:22)です。聖霊は「イエスが救い主(メシア/キリスト)であること」、聖霊が「弟子たちに教え・思い起こさせる働きをなし、教会の誕生と使命を基礎づけること」、復活の主によって息を吹きかけられた「新しい創造」(創世記2章/創造主に息を吹きかけられて人は初めて生きる者となった)であることを示します。この「聖霊」は神の救いの決定的働きを示すとともに、信仰者の内に働く自由な息・風・霊として私たちとともにあります(3:6–8)。キリスト者はこのような助け主/聖霊の働きにより、教会の信仰共同体の中に招かれ、霊の火を与えられつつ、あらゆる憎悪に勝って世に勝利します。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(Ⅰヨハネ5:4)
私たちはキリスト者として世から憎まれる時があります。同時に、私たちは自分自身を憎むときもあります。どうしても赦せない思いを持つこともあります。いや、それだけではなく、神すら憎み、呪う時もあります。憎悪が内側に向く時、それは自己嫌悪や自己否定となります。憎悪から生じる恥や罪責感の痛みもあるでしょう。皆さんは神に対する憎しみ、人に対する憎しみ、自分に対する憎しみを持ったことがあるでしょうか。
ヨハネ福音書のイエスさまは、自分の中にある醜く、憎いものを罪として罰したりする方ではありません。ヨハネ福音書の聖イエスは、ご自分との出会いを拒絶するものこそが罪であり、人の内面が罪ではないとします(15:22-25)。主イエスに出会った時、受け入れるか、あるいは受け入れないかが聖霊の交わりに入るか、罪の中にいるかの大きな境目です。主イエスは絶えることのない人々の憎しみの中、受難の十字架の中、ご自分の栄光を顕してくださいました。「キリストは十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2:16)主イエスの十字架にこそ、敵意を滅ぼす神の完全な赦しが顕されています。この十字架の主イエスに出会う時、憎み憎まれていた私たちは、神の愛によって完全に新しいものとして造りかえて頂けるのです。聖霊による新生の中で、共に歩みましょう。