礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2026.7.19. ヨハネ福音書講解㊽「飲むべき苦しみの杯を、共に」森崇牧師【ヨハネによる福音書 18章1~11節】(新共同訳 新約P.203~204)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 フィリピの信徒への手紙 1章27~29節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生235番「栄えの主イエスの」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 18章1~11節
特別賛美 ”感謝します” 聖歌隊
宣教 ヨハネ福音書講解㊽「飲むべき苦しみの杯を、共に」 森 崇牧師
祈祷
賛美 新生73番「善き力にわれ囲まれ」
頌栄 新生672番「ものみなたたえよ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 福音書は主イエスの受難を、其々に重く深く描いています。それは主イエスの受難と十字架が、福音を伝えるうえで大切な位置を占めているからです。主イエスはギドロンの谷(冬の流れの意)の向こうに出かけ、ゲッセマネと呼ばれる園に行かれました。そこは一行がよく滞在していた場所です。過ぎ越し祭を迎える夜空は満月となり、そこにイエスを捕えようとする多くの群衆が松明やともし火、武器を手にしていました。裏切ったユダはユダヤ当局の下役のみならずローマの歩兵分隊(ヨハネのみ記述)をも連れてきました。山で遭難した人を捜す以上の人数と装備には血気だった雰囲気を察します。主イエスは隠れ臆することなく自ら「進み出て」(4)「誰を捜しているのか」と問われます。主の受難は受動的でなく、積極的であり、進んで主はその業を担われます。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」(ギ語:エゴーエイミ)と答えられます。尊厳と神聖を示す神の名(出エジ3:14)であり、救済へと導く神の名です。主イエスはヨハネ福音書においてその救いの神のイメージを豊かに伝えられました。「わたしは命のパンである」(6:48)「わたしは世の光である」(8:12)「わたしは復活であり、いのちである」(11:25)「わたしは良い羊飼いである」(10:11)「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)これらの言葉は主告白の多様性を私たちに示しますが、十字架への捕縛前に示された本福音書最後の「エゴーエイミ」にはイエスを捕えるために集められた群衆を地に倒すほどの権威と力がありました(6)。ユダとその一隊は宗教と政治において悪に染まり、目的を達成するために武力に寄り頼む世界を表しています。それに対する信仰/神の国を求める主イエスは敵の前に弱々しく見えますが、天の父の御心に徹底的に聞き従うことに由来する目に見えない神の力を持ちます。『「わたしはある」』を信じる信仰者は、どのような苦難や大勢に苦しめられようとも、必ず勝利するこの幻を頂きます。
人々がイエスの捕縛を求める時、主は「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と言われました。ヨハネ福音書において弟子たちはイエスを「見捨てて逃げた」のでななく、主イエスが「去らせ」ます。それは「一人も失わない」(6:39)ためです。イエスの死は羊飼いがその羊のために命を捨てることです。一人も失われることのないよう、主イエスは弟子たちを去らせます。
ペテロは主イエスの言葉が実現しないように手下に剣による攻撃を加えます。しかしイエスは「剣をさやに収めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」と言われます。「剣を取るものは皆剣で滅びる」(マタイ26:53)と主イエスは言われます。人間はこの世的な力、武力、政治力、お金、人の知恵に頼って解決しようとします。しかし、神の御心は剣(力)によらず、与えられる苦難を耐え忍ぶ信仰と希望と愛によって成し遂げます。
「杯」は聖書では来る神の怒りと憤りの杯として表現されます。「杯」に表される神の感情は「憤り/怒り/嘲り/侮り/悲しみ/恐れ/滅び」(イザヤ51:17,22 ,エレミヤ25:15,エゼキエル23:31-34)です。本来、人間が犯した罪の故に自分で飲まなければならない杯、裁きの杯を、主イエスは十字架において受難の杯として受けてくださいました。しかし、この十字架において、神の栄光が顕され、主イエスはこれを救いの杯に変えてくださいました。イエスさまが与えてくださる杯、それは救いの杯であり、十字架の血によって成し遂げられる新しい契約の杯です(Ⅰコリ11:25)。受難の杯は主ご自身が飲まねばならぬ杯でしたが、主はご自分の十字架の後には、共にこの盃に与かりなさいと招いて下さいます。
ヨハネ福音書では弟子たちの逃げる姿や弱さや躓きではなく、ひたすら主イエスの苦難に対する姿勢を強調します。それは、この福音書を読む私たちが、主イエスと共に苦難の杯を受け、また共に乗り越えていくことが、聖書から私たちへ、信じられているからです。私たちの人生に、課題や痛みがあったとしても、神の御心を信じ、神の栄光を顕した主イエスの姿に倣っていくことが出来るように。すでに示されつつある十字架の主が、栄光の主であることを信じ、其々の杯を主の杯として受けてまいりましょう。