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礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2026.8.2. ヨハネ福音書講解㊿「真の生き方への一歩」森崇牧師【ヨハネによる福音書 18章28~38節】(新共同訳 新約P.205~206)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                 
招詞    フィリピの信徒への手紙 1章9~11節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生135番「愛するイエスよ」
主の祈り
献金感謝
主の晩餐式 「ひとつの聖霊」
聖書    ヨハネによる福音書 18章28~38節
宣教    ヨハネ福音書講解㊿「真の生き方への一歩」  森 崇牧師
祈祷
賛美    教団453番「きけや愛の言葉」
頌栄    新生672番「ものみなたたえよ(B)」
祝祷
後奏
宣教概要
 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)と主イエスは言われます。この真理こそはイエス・キリストを指します。「わたしは道であり、真理であり、命である」と主ご自身こそが真理であられます。
真理とはヨハネ福音書を貫くテーマです。真理(ギ語:アレーテイア)は「隠れていない」が基の意味ですが、そこから「人のまことの生き方」(ケセン語訳)とも訳されます。真理に対応するヘブライ語はエメト(まこと/真実)です。このエメトは詩編においては慈しみ(ヘセド)と共に用いられる言葉です(詩編85:11他)。つまり神ご自身の変わらない誠実な愛により(ヘセド)、救いはまことに確か/真実である(エメト)という事です。これにより私たちは「まことにそうです」(アーメン)と応答します。神の変わらない救いの確かさは、御子イエス・キリストにより人格的・啓示的真理として顕されます。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(ヨハネ1:17)
 ポンティオ・ピラトのもとに、すでに縛られていた主イエスが送られてきました。ピラトは第五代ユダヤ総督であり、ローマ帝国と共にこの地を支配していました。使徒信条にもあるように、「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と語られます。彼は外にいる群衆と官邸の中をたびたび出たり入ったりするものです。ピラトは自分たちの問題は自分たちで裁けという姿勢を伝えますが、「人を死刑にする権限はない」と突き返されます。ピラトのもとで苦しみを受ける事、それは主イエスの言葉が実現するためでありました(32)。そこでピラトは主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。この問いはローマ帝国にたてつく反逆者としての王なのか、あるいは神の救われる信仰の民の王なのかという宗教的リーダーかどうかで主イエスの答えは是か非かに分かれます。主イエスはピラトとやり取りをしつつ、自分が来るべき神の国の指導者であることを明確にし、この世の王ではないことを示しました。そしてこの世において神の国が実現するであろうことをはっきりと示しました。「それではやはり王なのか」とはピラトの理解は遠からずではありましたが、残念ながら彼は自分の救い主、主の主、王の王として主イエスを受け入れませんでした。彼は最も真理に近い場所にいました。しかしその一歩は進みませんでした。彼が属しているのはこの世であり、人々からの人気や羨望が彼の価値観を形作っていました。彼が本当に真実で誠実な指導者であるならば、「主イエスに罪はない」と断言して解放するべきでした。そして彼は祭りの慣例に従う釈放を望みましたが、民衆の扇動により、強盗であったバラバを選び、主イエスを十字架刑にしてしまいます。ピラトはまさにどっちつかずの為政者でした。真理であるイエスを目前にしていながら、真理には届きませんでした。
 ピラトを総称して四字熟語にするなら「真理目前/真理手前」と言えます。真理は目前なのにとびこめない。そうして実は、ピラトに見られるようなどっちつかずさは実は私たちの姿であると気づかされます。イエスを信じていながらバプテスマを受けることが出来ない。救いの確信がありながら世の誘惑に負けて自分の富を優先させてしまう。共にみ言葉を語りたいと願いつつ、尻込みさせられる。どれも真理一歩手前なのです。しかし、私たちが主イエスと共に歩みたいと願う時、主は「真理の霊」を送ってくださることを約束されました。私たちがたとえ一歩踏み出せなくても、真理の聖霊が来るとき、私たちは真理と一つのものとされ、共に歩んでいくことが可能です。ポンティオ・ピラトとはまさにわたしであった。その悔い改めに立たせて頂きつつ、新生者として共に歩みましょう。
「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず アーメン 」
             (使徒信条後半より)