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礼拝
林 健一

常盤台バプテスト教会 常盤台バプテスト教会 2022.7.10 主日礼拝 福音はだれのためにあるのですか 太田教会 林 健一牧師【ルカによる福音書10章25-37節】


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。

礼拝プログラム
前奏                     
招詞  歴代誌下16章9節    司式者
祈祷             司式者
賛美  新生131番 イエスのみことばは 1、3節 
聖書  ルカによる福音書10章25~37節
特別賛美  “主の手に委ねて” 
宣教  「福音は誰のためにあるのですか」 林 健一牧師
祈祷
賛美  新生500番 イエスがいなければ 1、2節 
献金感謝                 司式者
祝祷
後奏
宣教概要
 この聖書箇所は、「善いサマリア人のたとえ話」としてとても良く知られている箇所です。四福音書でルカによる福音書だけがこの有名なたとえ話を載せています。このたとえ話のきっかけとなったのは、ある律法の専門家から寄せられた質問です。その質問とは「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25)というものでした。もちろん、律法学者がそれを尋ねたのはイエスさまを試すためでした。このよく知られた伝統的な問いにイエスさまがどうお答えになるのか、それによってイエスさまという人物を律法学者は評価しようとしたのです。当時、ラビ(律法の教師)たちの間では永遠の命についての問答がよくなされていたようでした。
 イエスさまはその質問に直接お答えにならないで、反対に質問してきた律法学者に、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26)神の律法をあなたは「どう読んでいるのか?どう理解しているのか?」と反問しています。イエスさまは宗教の問答でなくあなた自身のなかでどう永遠の命について考えているのか?神さまのお言葉に対してあなたはどのように向きあっているのか?と問いました。もし、皆さんが律法学者の立場だったらイエスさまに何と答えられるでしょうか。
 律法学者は答えます。「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(27)。イエスさまは律法学者この答えを聞いて「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」(28)とおっしゃいます。イエスさまは「神を愛し」「人を愛する」ことが律法の中心であり永遠の命が受けられる道だと言われたのです。イエスさまはこれを「守るのでなく、行なうこと」で永遠のいのちを得られると言われました。イエスさまのお言葉は何を意味しているのでしょうか?
 この言葉で、試す者と試される側の立場が逆転してしまいます。イエス・キリストは律法学者に問いかけていらっしゃるのです。「あなた答えを知りながらなぜ行なおうとしないのか?」と。試される側になった律法学者は、自分が答えた律法をなぜ行なわないのか、自分を正当化する理由を見出さなければならなくなりました。そこで律法学者は「わたしの隣人とは誰か」という定義の曖昧さに、この律法を守ることができない正当な理由を見出そうとしたのです。つまり、何処から何処までが愛の対象である「隣人」に含まれ何処から何処までが愛する必要のない「敵」なのか、それがあたかも問題の中心であるかのように自分を正当化しようとしたのです。彼は律法学者であり永遠の命が何かを知っていながら自らを永遠の命から遠ざけてしまう愚かな質問をイエスさまにしたのでした。
 イエス・キリストはこの愚かな問いに、善いサマリア人のたとえ話をもってお答えになったのです。イエス・キリストがお話してくださった、たとえ話は「わたしの隣人とは誰か」という発想の間違いを正すというばかりではありません。それ以上に、「何をしたら、永遠の命が受けられるのか」という問いの間違いも正しているのです。それはたとえ話に出てくるようなよきサマリア人に助けられなければ命を得ることはできないのです。善いサマリア人とはほかならないイエス・キリストご自身ではないでしょうか。命の危険を顧みず、必要な助けの手を差し伸べる人。イエス・キリストこそ、その人なのです。