礼拝
友納 靖史
常盤台バプテスト教会 2021.10.24 主日礼拝 悲嘆から希望の民へ⑮「封じこめられない力」友納 靖史 牧師 【エレミヤ書20章7~13節(新共同訳 旧約P.1214,1215)】
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 ローマの信徒への手紙5章15、19~21節 司式者
祈祷 司式者
賛美 123番 果てなき大空 1、3節
聖書 エレミヤ書20章7~13節
特別賛美演奏 "いつくしみ深き" 少年少女会・青年会
宣教 悲嘆から希望の民へ⑮「封じ込められない力」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 260番 み言葉もて霊の火を 1、3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- エレミヤ書20章の冒頭に、主の神殿祭司の長パシュフルがエレミヤの語った神の預言に激怒し、彼の活動と言動を封じ込めるため、むち打って拘留し、自由を一時奪ったと記されます。しかし拘留が解かれた直後、南ユダ王国がバビロンに捕囚の民とされる際、祭司パシュフル自身は偽りの預言を行なった罪で一族諸共に裁かれると、預言者エレミヤは恐れず語りました。けれどもエレミヤは神が彼を預言者として召された(1:1-19)にも関わらず、非道な仕打ちを受け続けることに疲れ果て、神に向かってこう語るのです。「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕らえられました…主の言葉ゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません(20:7-8)」。つまり、主なる神が預言者になることを拒んだエレミヤを召し出されたはずなのに、どうしてこのような苦しみが続くのですか…と。
それと同時にエレミヤは自ら神の前に降参をも告白します。「わたしは疲れ果てました。わたしの負けです!」と。なぜなら「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして <も、それは出来ないと、分かりました…> (20:9)」との叫びが溢れ出しました。心身は疲れ果てても、魂の中に燃え上がる神の言葉を語る力はエレミヤ自身の思いを越えて働く体験をしました。更に彼は主なる神を「主は恐るべき勇士として私と共におられ」「万軍の主、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方」と告白し、理不尽な仕打ちをする人々への復讐は神にお任せする決意と、エレミヤの憤りや嘆きの感情が渦巻いても、それでも「主を賛美しよう」との信仰が勝る者へと変えられたのです(20:12-13)。
天地創造から今に至るまで「神の言葉」を注がれる者は、様々な困難、迫害に遭ったとしても封じ込めることのできない神にある希望、喜びそして平安が溢れ出す恵みが約束されます。初代教会時代、ペトロとヨハネに対して、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と当時の祭司や議会の議員たちから命令されても、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と答え、二人は決して当時の権威者に屈服することをしませんでした。
かつて、十字架による死を目前にエルサレムに入場して、弟子たちが主イエスのなされた多くの奇跡を喜び、声高らかに神を賛美した際、ファリサイ派の人々がそれを制止しようとしました。すると主はこう語られたのです。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」と(ルカ19:37-40)。このように、封じ込めることができない神の力、神の御言葉と神への賛美が、父・子・聖霊なる、主なる神を信じる者とされた私たちの中にあることを改めて自覚することができます。
この一年半以上、主なる神を賛美礼拝するために共に集うことが出来ないでいた私たちは、声に出して主を賛美しない礼拝を肯定し受け入れたのではありません。いや、この時期を経験したからこそ、封じ込めることのできない神を賛美する思い、神の御言葉を制限なく語り伝えたいとの願い…が今まで以上に与えられている…と気づかされています。再び教会に集められる時、封じ込めることのできない福音の力を、古い革袋ではなく、主イエスの「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れよ(マルコ2:22)」との御言葉に従い、歩みだしましょう。