礼拝
友納 靖史
常盤台バプテスト教会 2021.11.21 主日礼拝 悲嘆から希望の民へ⑰「希望の若枝」友納 靖史 牧師【エレミヤ書23章1~6節】(新共同訳 旧 P.1218-19)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 イザヤ書11篇1~3節 司式者
祈祷 司式者
賛美 344番 聖なるみ霊よ 1、2節
聖書 エレミヤ書23章1~6節
特別賛美演奏 "わが君イエスよ 罪の身は"
宣教 悲嘆から希望の民へ⑰「希望の若枝」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 552番 わたしが悩むときも 1、2、3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 切り倒された木の切り株は、樹木の生命が終わったかのように見えます。しかし時が経つと、切り株の脇に若枝が生え出で、天に向かって力強く成長する、生命力をも秘めています。主なる神によって、預言者エレミヤは正に今、切り倒され、滅びようとしている南ユダ王国と最後の王ゼデキヤの姿を預言しました。栄光に満ちたダビデとソロモンたちの王国は見る影もなくなり、その後の王と民らが犯し続けた偶像礼拝の罪と、形式だけの礼拝によって、腐れて枯れた木のようになった王国は、切り倒されようとしています。けれどもその後に「正しい若枝」とされる王の王、全世界の救い主となられるお方の新たな到来が告げられるのです。
23章の冒頭には、神に託された“牧場の牧者”であるはずのゼデキヤ王と祭司たち(当時の王国の政治的宗教的リーダー)が、神の牧場の“羊の群れ”なる民衆を顧みる(養う)ことなく、その群れを散らし、追い払った罪を神は告発します。しかし、神に再び集められる羊たちは、子を産み、数を増やし、その新しい群れを“牧する牧者”として「ダビデのための正しい若枝」の誕生をエレミヤは預言しました。この羊の群れは、新約におけるキリストの教会となります(ヨハ福21:17)。健全な羊の群れとは、羊が羊を生み出す群れであり、真の牧者に導かれるので、課題多き時代の只中においても、恐れず、怯えず、迷い出ることなく、緑の牧場(教会)で養われ、魂の安らぎが与えられる詩編23篇そのものの実現をエレミヤは預言しました(エレ23:3-4)。
イザヤ(BC740-670)はエレミヤ(BC626-580頃)より前の預言者で、北イスラエル王国が存在した時代、南ユダ王国で「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(11:1-2)と、同じ「若枝」の譬えを用い、ダビデ王の父エッサイより誕生する救い主を予告します。エレミヤは、その若枝を「彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる」と更に明確に告知しました。新約に登場するイエス(ギリシャ語:イエースース)という名前は、旧約を記したヘブライ語で、「ヨシュア(イェホーシューア)・『主(ヤーウェ)は救いである』」との意味です。正にイエス誕生の6世紀も前に、エレミヤによって救い主の具体的名までもが預言されていたことは驚きです。
人間を自由にするために定められた神の教えが時代を経て、誤った律法主義と、形骸化した礼拝へと変質していました。イエスは当時、形骸宗教の大木を切り倒し、人々に新しい命の若枝を芽生えさせられました。イエスを十字架で処刑する命令を受けた百人隊長は、イエスの十字架の死に至る姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27:54)と語ります。この時が彼の内に信仰の若枝が芽生える瞬間となりました。こうして罪ある人間を裁かれる神ではなく、主イエスが御自身を犠牲とされ、御自身が切り倒されること『死』を甘んじて受け、神の愛の若枝、信仰の若枝を人間の心に芽生えさせられたのです。
私たちも自らの弱さと過去の過ちを思うと、切り倒された切り株を見るように、失意と失望を覚えることがあります。しかし主イエスは、主を信じて信仰を告白し、バプテスマを通して、本当の死によって切り倒され、終わる存在とされず、命の若枝が私たちの内に芽生え、永遠の命の希望に生きる者として救いを完成されました。今、イエス・キリストにある尽きることのない豊かな命の幹につながり、新たな人生を共に歩み出しましょう。その一人に加えられた使徒パウロはこう告白します。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された
者なのです。古いものは過ぎ去り、 新しいものが生じた。」 (コリ二5:17)