礼拝
友納 靖史
常盤台バプテスト教会 2021.9.19 主日礼拝 悲嘆から希望の民へ⑫「苦難の時の逃れ場」友納 靖史 牧師 【エレミヤ書16章14~21節 (新共同訳 旧約P.1207,1208)】
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 435番 山辺に向かいてわれ 1、3、4節
聖書 エレミヤ書16章14~21節
特別賛美演奏 "主は我が隠れ場" 奏楽者
宣教 悲嘆から希望の民へ⑫「苦難の時の逃れ場」友納靖史牧師
祈祷
賛美 552番 わたしが悩むときも 1、3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 預言者エレミヤの時代から400年程前、イスラエル王国初の王サウルに命を狙われ、逃亡生活を経験したダビデ。彼が王となって当時を振返り、「あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場(詩59:17)」と神への賛美を献げます。エレミヤがバビロンへの捕囚を前に、神からの預言の言葉を危機感を持って人々に語っても、全く耳を貸さず、彼の命さえ奪おうする南ユダ王国の群衆の中、彼も深い孤独感に苛まれる日々が続きました。信仰さえ失いそうになった時もありましたが(14,15章)、彼は「主よ、わたしの力、わたしの砦。苦難が襲うときの逃れ場よ(エレ16:19)」と告白します。これはエレミヤが尊敬するダビデの信仰を思い起こし、苦難においても神が逃れの場を備えられると信じたからです。
16章前半のタイトルは「預言者の孤独」です。キリスト教心理学者C.W.Ellisonは「孤独」を3つに分類しました。“情緒的孤独”は個々人の感情から生じ、孤立感の感じ方は異なります。“社会的孤独”は隣人との交わりが断たれ、隔離・監禁・疎外など好ましくない状態を含みます。もう一つは“実存的孤独”です。これは、人は神に創造された(実存的)存在であり、真の神と出会うまで、他の何者(物)によっても安心感を得ら(満たさ)れず、孤独を感じる存在であるとされます。ダビデとエレミヤも、前者二つの孤独に苛まれ苦しみました。けれども二人は、主なる神との深い交わりと励ましがあったことで、困難な状況に置かれても、偉大な主によって心も魂も守られ、逃れ場(隠れ場)に匿われている平安に包まれていたのです。幸いにダビデは二人の存在によって更に支えられていました(サム上19・20章)。その一人が、サウル王の次女で妻となったミカルで、父がダビデを殺害する危険を察知し、窓から彼をつり降ろして逃亡させ、難を逃れさせます。もう一人はサウル王の息子で親友のヨナタンで、父サウルに逆らってまでダビデの為に誠意を尽くす関係性がありました。ダビデは彼らに支えられ深い感謝を覚えたことでしょう。ですがダビデは人を賛美することはせず、生涯を通じ、彼の助け手(友)を備えてくださったお方である主なる神のみを崇め、賛美する信仰に立ち続けました。それは孤独感(loneliness)を感じる以上に、神と共にある交わりと平安(Solitude)がダビデの中に満たされ続ける恵みに預かっていたからです。
エレミヤも孤独感を覚えますが、神より注がれる希望によって彼の使命を貫く力を得て、歩み続ける者とされました。その理由の一つが主のこの語りかけでした。「『イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる』と言わず、『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる…』(16:14-15)。つまり、神の裁きとなるバビロン捕囚を前にして、それでも神の計画は救いと解放であるとの希望を先立って語られる神の愛。この希望という隠れ場・逃れの場にエレミヤは彼の実存(存在)を委ねる信仰に立つ預言者でした。
新型コロナ危機に伴う苦難は、私たちに孤独感・孤立感・焦燥感など実に多くの痛みを生じ続けています。しかし私たちは、共に集うことはできなくとも、キリストの十字架を仰ぎ、主なる神の御前に一つとされていることを信じ告白します。「今も生きておられる主は、聖書に記された神の民だけでなく、私たちをも苦難の時に逃れ場を備え、導き出してくださるお方です」と。8月の平和祈念会がTV取材を受けることになった時、「主はこの教会の日々の葛藤と主への献身を知っておられ、励ましを与えてくださったのでは…」と思わされ、不思議な平安で満たされました。主は今も生きておられます。
「あなた(神)は私たちを、ご自身にむけてお創りに
なりました。ですから私たちの心は、あなたのう
ちに憩うまで、安らぎを得ることはできません。」
(アウグスティヌス『告白録』)