礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2022.10.9 主日礼拝 イエスの許に帰ろう⑤「静けさの中で生きる」友納靖史牧師【マルコによる福音書 4章35~41節】(新共同訳 新約P.68~69)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編 121篇1~8節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生520番「人生の海のあらしに」
献金感謝 司式者
聖書 マルコによる福音書 4章35~41節
特別賛美 「ああ驚くべきイエスの愛よ」聖歌隊
宣教 イエスの許に帰ろう⑤「静けさの中で生きる」友納靖史牧師
祈祷
賛美 515番「静けき河の岸辺を」1.3.4節
頌栄 新生671番「ものみなたたえよ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- ある日の夕方、神の言葉を待ち望む人々と出会うため、「向こう岸に渡ろう」と主イエスは弟子たちに言われ、慣れ親しんだガリラヤ湖西岸より、異邦の地・東岸へと出航しました。この出来事は、主なる神より託される使命(命を使う)を担うため、今いる場所にとどまることなく前進する私たちの人生と重なります。漁師の経験から天候を読める弟子たちがいたにも関わらず、激しい突風が船を襲い、水浸しとなり、船が沈む程の危機に遭遇しました。そこで弟子たちは、船の艫(後方)で寝ておられたイエスを叩き起こします。ここで彼らは「主よ、助けてください」ではなく「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。もしかして心の中で「この状況を知らず、よく寝てられたものですね…」と師である主に不平不満を抱いていたからなのでしょうか。それでも主イエスは起き上がり、風を叱りつけ、湖に「黙れ。静まれ」と言われ、すると直ちに風は止み、凪となって嵐は静まったのです。
この状況は映画の一シーンのように目に浮かびます。なぜなら状況は異なっても、私たちの人生も、困難が嵐のように突然襲い掛かることがあるからです。向こう岸を日本語で「彼岸」と表記し、地理的「対岸」を指す以上に、人生の先にある未だ見ぬ場所、つまり死を越えて向かうべき世界を意味することがあります。一人一人の人生の航路に御子イエスが共におられることをマルコは証ししました。ここで心に刻みたいことは第一に、不安と危険に遭遇するとき、主イエスを“起こす”なら、危機的状況より主によって救い出してくださることです。弟子たちがイエスを「起こした」とありますが、これは原語で「復活した(マタイ28:6-7)」と訳される同じ言葉です。人生最大の危機は「死」であり、死の嵐を通過し『彼岸』(神にある新しい命の世界)へと辿り着けるかどうかは、死に対して無力な人間にとって、正に最大の不安・恐れではないでしょうか。しかし十字架の死を越え復活された主イエスこそ、自然界さえも支配され「黙れ、静まれ」と御力を行使できるお方です。私たちも復活の主に語りかけ祈りましょう。その時、「いったい、この方はどなたなのだろう」と弟子たちの信仰が呼び起こされていったように、私たちも「イエスこそ主なり」と告白する者とされ、人生の嵐より救い出されていくのです。
第二に、主イエスが休んでいた船の艫の方(後方)とは、船を安全な場所に停泊させる時に用いる「錨」がある場所であったことです。つまり、主イエスが船の錨のように、私たちの存在を安全な港に停泊させる役割を担っておられるお方であると彷彿させます。イエスを救い主と信じる者は「このお方が共に(艫に)おられるから恐れなくてよい」と知っており、たとえ嵐が襲いかかっても、主イエスの存在を思い起こす時、心も魂も静けさを取り戻し、日々守られて過ごせるからです。
年を重ね、眠りが浅くなるからだけでなく、私たちの内に不安や恐れの突風が吹き荒れ、心騒いで寝れない日はないでしょうか。その時こそ、それぞれの人生の旅路に共におられる主イエスの存在に気づき、特に私たちの罪を担うために命を差し出された十字架の主イエスを見上げ、呼びかける呼びかけ祈るとき、主の偉大な力により、静けさを回復し、彼岸へと恐れずに旅を続けられます。「わたしたちが持っている(イエスにある)この希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの(ヘブ6:19)」との告白は真実(アーメン)ですから。