礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2022.3.20 主日礼拝 悲嘆から希望の民へ㉔「祈りは、神との対話」友納靖史牧師 【エレミヤ書 32章16~25節】(新共同訳 旧約P.1238-1239)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 イザヤ書 2章1-5節 司式者
祈祷 司式者
賛美 60番 わが霊たたえよ 1・2・4節
聖書 エレミヤ書32章16~25節
特別賛美演奏 主よ今われらの罪をゆるし 奏楽者
宣教 悲嘆から希望の民へ㉔「祈りは、神との対話」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 426番 語りませ主よ 1・2節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- バビロン捕囚によって今、正に国が滅ぼされようとする時、「この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る」と神は語り、エレミヤはアナトトの畑を買い取りました(32:6-15)。土地購入証書を彼の書記バルクに渡した直後の神への祈りの言葉が今日の箇所です。その祈りは3つに区分でき、第一に「神への賛美」(17-19節)、次に「神への感謝」(20-22節)、そして「神への問いかけ」(23-25節)となります。最後の部分を読むと、あたかもエレミヤが神を疑う祈りと誤解されがちです。しかしこれは預言者であったエレミヤも一人の人間で、神を信じていても、納得のいかないことは、正直に神に問いかけ、対話する姿が描かれています。エレミヤは知っていました。神に逆らい続けた神の愛する民が捕囚とされ、国は一度滅ぼされますが、七十年後再び帰還できるとの計画を。更に彼は、出エジプトをはじめ多くの奇跡を行ってこられた万軍の神・主は、信じるに値する素晴らしいお方であると。けれどもこの時、美しい都エルサレムがカルディア人の手に落ちる直前で、混乱と混沌とした最中にある現実を目の当たりにして、「畑を買い取り、証文を作成しても、無駄になるのではないかと疑い深い私に、神よ確証をください!」と、嘆きに近い祈り、つまり神と率直に対話するエレミヤがいました。主はそれに応え、「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか・・・(32:27」。更に「・・・国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(32:26-44)と丁寧に対話されました。こうしてエレミヤは神が本当に「災いではなく、将来と希望を与えるお方である」と改めて信じる者とされます。宗教改革者ジョン・カルバンが「祈りは神との対話」だと語った通りです。
困難な時が続くと、信仰を持っているはずの私たちもエレミヤ以上に神を疑い、不安と恐れが心に溢れます。その姿を主はご存知であり、その私たちに関わって下さるお方です。主イエスが復活後、弟子たちに現れた時、留守をしてその場に居なかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い放ちます。しかし主は八日後、そのトマスと他の弟子達の前に再び現れ言われました。「あなたがたに平和があるように・・・あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。この対話を通し、疑い深いトマスは、こう告白する者へ変えられます。「わたしの主。わたしの神よ」と。
『バランスのとれた5つの祈り』として、手の指を用い「神への ①賛美、②感謝、③悔い改め、④執り成し、⑤願望」を奉げる習慣があります。確かにこの5つは重要ですが、つい私たちは終始一方的に神に語りかける祈りになっていないでしょうか。実は両手の半分は「神への傾聴」を表すことも忘れてはなりません。両手を合わせて祈る時、祈りは神と私たち双方向の「対話」です。ですから、日々私たちの内に語られる生ける神の御声と、日々与えられる聖書の御言葉に聴き、『神との対話』(主なる神との交わり・コイノニア)を深めて参りましょう。主こそが私たちの歩むべき光の道、平和の道を示してくださるお方だからです。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。・・・ 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザ2:1-5)。アーメン。