礼拝
大須賀真人
常盤台バプテスト教会 2022.4.24 主日礼拝 「主に召されて」大須賀真人牧師(横須賀長沢キリスト教会牧師) 【コリントの信徒への手紙 一 15章50~58節】(新共同訳 新約P.322~323)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編23篇 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生讃美歌229番「十字架のもと」1.2節
聖書 コリントの信徒への手紙 一 15章50~58節
特別賛美 新生讃美歌243番「墓の中にいと低き」1.3節
宣教 「主に召されて」 大須賀真人牧師(横須賀長沢キリスト教会牧師)
祈祷
賛美 教団讃美歌488番「はるかに仰ぎ見る」1.3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 皆さんおはようございます。
教会では、どなたかがお亡くなりになると、主に召されたという言い方をします。この世での生涯を終え、主の御許にいくことは主の召しなのだということです。私たちが何か選び取って、私たちが主の御許にいくのではありません。主が私たちを選び取って、私たちを主の御許に迎えてくださるのです。私たちが努力しようがすまいが、また、どんな過ちを犯していたとしても、関係がありません。主は召してくださるのです。そして、主の御許では、主の愛と平安が永遠に満ち溢れております。なんとありがたいことでしょうか。あの大宣教者パウロですら、できる事なら私も早く主の御許に召されたいと言っているくらいです。先に主の御許に召された方々は、そんなありがたいところにおられます。そして、すべての人たちが、誰一人溢れ落ちる事なく、主の御許に召されることになるのです。
主の召しについて、その本質をよく表している事柄は、召天の出来事だと思います。死に対して、私たち人間は無力です。もちろん、今日では科学がますます進歩し、あらゆる事柄が私たち人間の意のままに扱えるようになってきたかのようにも見えます。しかし、未だに命だけは0から作り出すことができないとも言われています。そして、やがては、誰もがこの世での生涯を終えることになります。それでも、ある人はおっしゃるかも知れません。このまま科学が進歩すれば、私たち人間は命の事柄まで操ることができるようになるかも知れない、と。しかし、主イエス・キリストの十字架の出来事をよく思い出してみてください。主イエス・キリストを十字架に掛けたのは私たち人間でした。そして、主イエス・キリストを殺したのも私たち人間でした。私たち人間が主なる神さまを十字架に掛けて殺してしまったのです。それでは、私たち人間は主なる神さまの命を意のままにできたということなるのでしょうか?実は、この主イエス・キリストの十字架の出来事は、旧約聖書の時代から既に主なる神さまのご計画として表されていました。ですから、これは主なる神さまの御心に適った出来事で、決して人間が主なる神さまの命を意のままにした出来事ではありません。もちろん、主なる神さまを十字架に掛けて殺した事は、私たち人間の罪によるものなので、私たち人間は言い逃れできるものではありません。ただ、主なる神さまは、そんな罪ある私たち人間を、さらに大きな御手で包み込み、私たち人間の罪を明らかにし、さらに、その罪を赦して、誰もがご自分の御許に召されるように導いてくださっているのです。それが、主なる神さまのご計画であり、御心です。ここに愛があります。私たち人間がいかなる事を計画しようが、いかなる事を企もうが、主なる神様の御心は変わることがありません。主なる神さまは、常に私たち人間を大きく包み込み、導いてくださっています。私たち人間の命もまた、主なる神さまの大きな御手のなかにあるのです。
今日の聖書箇所では、罪ある私たち人間、朽ちるべき、死ぬべき私たち人間が、主なる神さまの大きな御手に包まれていることがよく表されている箇所です。その御手は朽ちないものであり、死なないものです。そして、その御手に包まれることで、私たち人間も朽ちないもの、死なないものにされます。その際に、私たち人間は、朽ちるべき、死ぬべき自分を脱ぎ捨てる必要はありません。そのまま、主なる神さまの御手に包まれていればよいのです。先に主の御許に召された方々も、主なる神さまに包まれて、平安に過ごしておられることでしょう。そのように、私たちすべての人間が、必ず主なる神さまの御手に包まれることになるのです。