礼拝
渡部信
常盤台バプテスト教会 2022.5.29 主日礼拝「日々、主と共に歩む」渡部信牧師 【使徒言行録 2章22~36節】(新共同訳 新約P.215)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編 23章1~6節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生16 「み栄あれ 愛の神」 1, 2節
聖書 使徒言行録 2篇22~36節
特別賛美 70周年記念讃美歌10番「恵みの約束」
宣教 「日々、主と共に歩む」渡部信牧師
祈祷
賛美 新生583番「イエスにある勝利」1, 2節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- さて本日は礼拝の最初に詩篇23編を朗読して頂きました。これはダビテ王の詩歌です。彼は音楽家でしたので、彼のひく竪琴の音色は、サウル王の心さを和やかにし、憎しみの心を癒したことでしょう。また羊飼いであった彼は、毎晩、竪琴を弾きながら、羊の群れを前にして美しい賛美の調べを謳い、彼の安らぎを得たことでしょう。彼はこの詩篇23編の中で、「主は私の羊飼い・・・たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れない あなたは私と共におられ あなたの鞭と杖が私を慰める」と謳っています。主を「あなたと共に」と親しみのある二人称で呼んでいます。彼はエッサイという父の末っ子で羊飼いの少年でした。エッサイの父はオベドで、ボアズとルツ記のルツのひ孫にあたります。青年時代に、ライオンと戦い、ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒し、一躍名雄となりましたが、直属のサウル王に命を狙われ、国外に逃亡し、何年も死の陰の谷をわたるような流浪の人生を経験しました。その彼が、「あなたが私と共におられ あなたの鞭と杖が私を慰めた」と告白しているのです。ここで「主」とは、神様の別な呼び方ですが、新約時代に住む私たちにとって、主とは「復活した主イエス・キリスト」のことを指しているのです。
今日の聖書箇所、使徒言行録2章には、これを証明するために、使徒ペトロが、キリスト教会が誕生したペンテコステの日に、ダビテの詩篇を2か所引用して人々にいかにしてイエス・キリストが主であるかを宣べたことが記されています。その説教は使徒言行録の2章の6節から始まります。何故、イエス・キリストが主であり、救い主なのか。そこにいた民衆は、十字架にかかる前に、エルサレムにロバに乗って入城し、ダビテの子、ホザナと叫んだ人々でした。あるいはそう期待した人々でした。そこでペトロは丁寧に誰でも知っているダビテの詩篇を通して、丁寧に語り掛けました。まず、詩篇16篇からの引用です。「私は絶えず目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので私は揺らぐことがない。それゆえ、私の心は喜び 私の舌は喜び踊った。私の肉体もまた希望のうちに安らう。あなたは私の魂を黄泉に捨て置かず あなたの聖なる者を朽ち果てさせない。あなたは、命の道を私に道を示し、御前にいる私を喜びで満たしてくださる」
このペトロの引用は詩篇16篇の原文とまったく同じ文章です。
ここでペトロは、ダビデが、「私の魂を黄泉に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てさせない」と語っているは、ダビデ自身のことではなく、あなたがたが十字架につけ三日目に甦ったあのイエス・キリストのことを預言して「私の魂を黄泉に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てさせない」語ったのです。何故なら、ダビデは死に葬られ、その墓は千年の間、ここにあるではないか。彼は後から遣わされる主イエス・キリストを予見して、キリスト・イエスの復活を預言してこの詩を謡ったのです。つまり、イエス・キリストは決してダビデの子ではなく、ダビデが待ちわびていた主と仰ぐ、救い主であり、そしてあなた方は、そのイエスを十字架につけることを許してしまった。しかしこのイエスこそダビテが予言した墓から甦えった救い主であることを宣言しました。
次に詩篇110篇1節からペトロは引用します。「主は、わたしの主に告げられた。私の右に座れ、私があなたの敵を あなたの足台とするまでは」。これも詩篇110篇の原文とあったく同じ文章です。この2番目の聖書の箇所は、皆さんも新約聖書で度々、引用される御言葉でご存じの方もいると思います。イエス・キリストご自身はマタイ、マルコ、ルカの3福音でこのみ言葉に触れられ、人々がイエスを、ダビテの子と呼ぶものですから、そうではない。ダビデが「主は、わたしの主に告げられた。私の右に座れ、私があなたの敵を あなたの足台とするまでは」とは、神の右の座に座っていなさいと言われた方を「わたしの主」という言葉を使っているのに、どうして「その方を」ダビテの子と言うのか。イエスが弟子のペトロに尋ねると、ペトロは、あなたが言うように、あなたはメシヤです、主ですと信仰告白する場面が記されています。つまり、人々は、最後まで、イエス・キリストがどういうお方なのか理解できませんでした。つまりエルサレムにロバの子に乗って入城するとき、イエス・キリストをダビテの子、万歳、ホザナ、ホザナと叫び、ダビデに継ぐ新しい王様が誕生すると思ったのです。しかしその王となるべき方が、十字架にかかり、亡くなった訳ですから 群衆の多くの人々は失望したでしょう。しかし、ダビテが詩篇で歌ったように、イエス・キリストは黄泉に捨てられず、復活して永遠の救い主として今、神の右の座に座り、私たちと共にいてくださり、聖霊をくださったのですとペトロは宣言したのです。
これを聞いた群衆は、あのイエスという方は、我々が尊敬するダビテが、「私の主」と呼び、神の右の座に座られた主であったと聞いて、恐れをなし、私たちは何という間違いを犯したのであろう、大いに心を強く刺され、ペトロと他の使徒たちに「私たちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねると、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう」。彼らにこう勧め、その日に三千人の人々がバプテスマを受けクリスチャンになりました。