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礼拝
松﨑準

常盤台バプテスト教会 2022.7.24 主日礼拝 「神様はぶどうの剪定のプロ⁉」松﨑準牧師(ラーレー日本語バプテスト教会 牧師【ヨハネによる福音書 15章1~11節】(新共同訳 新約P.198~199)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。

礼拝プログラム
前奏                     
招詞   出エジプト記19章5節  司式者
祈祷          司式者
賛美   新生134番「生命のみことば たえにくすし」1・3節 
聖書   ヨハネによる福音書 15章1~11節
特別賛美 常盤台バプテスト教会70周年記念讃美歌3番「エレミヤ 29:10~14a」
宣教   「神様はぶどうの剪定のプロ⁉」松﨑準牧師(ラーレー日本語バプテスト教会 牧師)
祈祷
賛美  新生514番「めぐみの主は」1・3・5節
献金感謝                    司式者
祝祷
後奏
宣教概要
イエス様は弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と言われます。イエス様がぶどうの木で、弟子たち、そして、私たち一人一人はその枝であるというのです。枝は自分で実をつけることはできません。ぶどうの木から養分を受けてはじめて実をつけることが(実を結ぶことが)出来るのです。私たちは、ぶどうの木であるイエス様の存在なしに、自分の力で実をつけることは出来ません。

 しかし、2節にこう書かれています。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れなさる。」と。この「取り除かれる」という言葉を聞いて不安になったり、恐ろしく感じたことはないでしょうか?自分は枝として実を結んでいないから、父なる神様に取り除かれてしまうのかな、と心配になりませんか?あるいは、自分は何人かに伝道をして実を結んだことがあるから、取り除かれることはないだろう、と自信のある方もおられるかも知れません。この「取り除く」とは、農夫である神様がぶどうの枝の剪定をされる、手入れをされることを言っているのです。ですから、イエス様につながっているクリスチャンは、ぶどうの木の枝として神様から剪定されるということなのです。

 この神様の剪定(手入れ)の意味についてはいくつかの考え方があると思いますが、私はこの剪定の意味は、ある人たちは取り除かれ、ある人たちはさらに祝福を受ける、というような二元論的な意味ではなく、これは私たち一人一人の内面のことを言っているのではないかと思うのです。つまり、私たちの中に実を結ばせる良い面(枝)と、実を結ばせない悪い面(枝)があるということなのです。それは罪です。罪のない人は一人もいません。ですから、すべての人が神様によって取り除かれてしまう対象なのです。しかし、一方では、実を結ぶことが出来る良いところもある。だから、神様は私たちの中の悪いところを取り除き、良いところがさらに良くなるように手入れをして養ってくださるのです!

 このぶどうの剪定というのは、プロでも悩む難しい作業のひとつだそうです。品種はもちろん、木の樹勢(育ちぶり・状況)などを考慮して剪定の仕方を見極めていくのはとても難しいと言います。神様はまさに、私たち一人一人の状況を見極めつつ、絶妙に、愛情を込めて、大切に、手入れしてくださるのです。そして、この剪定は、主イエスの御言葉を通して実現されていきます。御言葉によって問われる時、耳が痛いと思う時、心地良くない時など、もしかしたら自分の中の実を結ばない部分が取り除かれている時なのかも知れません。また、御言葉によって励ましをいただき、元気をいただき、心が燃やされる時は、自分の中の良い枝が伸ばされているのかも知れません。だから、私たちは御言葉を真剣に受け止めなければなりません。御言葉の自分に都合の良い部分だけを聞き入れるのではなく、都合の悪い部分も素直に受け入れ、私たちの悪い部分が切り落とされていくことが大切だと思います。

 そして、最も大切なことは、4節で、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」とイエス様が言われているように、イエス様につながることです。この「つながる」という言葉は他に、留まるとか、住むとか、内在する、などと訳すことが出来ます。しかも、この言葉は今日の箇所の中だけでも10回も出てきます。それだけ、大切な言葉だということなのです。
 私たちは自分の努力や頑張りで実を結ぼうと思う必要はありません。実を結ばせるのはぶどうの木です。私たちがすべきことは、イエス様につながり続けるということ、留まり続けるということです。しかも、それさえも農夫である(剪定者である)神様が支えてくださるのです