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礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2023.2.19 主日礼拝 「さぁ種を蒔こう ―信仰と祝福の実りへー」森崇牧師(大名クロスガーデン牧師)【ヨハネによる福音書 12章20~26節】(新共同訳 新約P.192)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                     
招詞   ペトロの手紙一 1章23~25節  司式者
祈祷          司式者
賛美   新生184番「マリアより生まれたもう」1.2節
献金感謝            司式者
聖書   ヨハネによる福音書 12章20~26節
特別賛美 
宣教   「さぁ種を蒔こう ―信仰と祝福の実りへー」森崇牧師(大名クロスガーデン牧師)
祈祷
賛美   新生661番「聞け主のみ声を」1.3節
頌栄    新生674番「父 み子 聖霊の」
祝祷
後奏
宣教概要
 平尾バプテスト教会牧師の森崇と申します。新年度から常盤台教会の皆さまと共に歩ませて頂くことを主に感謝し、この任務を自らの光栄としています。ですが、わたしは「無学な普通の人」です。これからの牧者としての歩みのために祈り支えて頂きますように、お願い申し上げます。
 さて、本日のこの箇所は、ヨハネ福音書のちょうど真ん中に位置する聖句であり、ヨハネ福音書の信仰の根幹を支えている言葉です。イエス様の第一声はこうでした。「人の子が栄光を受ける時が来た」と。「栄光」とはなんでしょうか。ヨハネによる福音書での「栄光」とは「十字架と復活」のことを意味しています。十字架とは、受難です。ですからイエス様は「ご自身が十字架と復活を受ける時が来た」との意味で「人の子が栄光を受ける時が来た」と告げられているのです。
 「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし死ねば多くの実を結ぶ」との言葉は、主イエスご自身の十字架と復活の恵みを指し示す聖句であることを私たちは知っています。一粒の麦の死とは、主イエスが私たちの罪を背負って死なれ、私たちの罪の赦しを成し遂げられ、また主イエスが死んで三日目に甦られたように、主イエスを信じる者もまた復活のいのちに預かるのだと。種麦が、畑に蒔かれることがなければ、それは種麦のままです。古代の人は種が地面に蒔かれること、これを「死」と捉えたそうです。しかし、一度蒔かれれば、種麦は自らの殻(自らを覆う死)を打ち破ります。これが種の新生、生まれ変わりです。
「自分のいのちを憎む」とは「自らの殻を打ち破る意思」のことです。そしてそのように
生きようとする人のことです。その人は永遠の命に至る。永遠の命とは永久に続く命の意味ではありません。2011年の東日本大震災で被災をされ、津波を受けた聖書として後に出版された『ガリラヤのイエシュー』の訳者、山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)さんは「永遠のいのち」を「いぎいぎとしたいのち」と訳しました。それはつまり、いま私たちが生きているそのいのちが燦然と輝くことこそ、永遠の命だと言われるのです。いつも自分の殻を打ち破ろうとする意志のあるものには、生き生きとしたいのちがある、そう告げられています。
 今日わたしが、メッセージの中で皆さんに一番伝えたいこと、それは主イエスが言われた
「一粒の麦の栄光」とは、他ならぬ私たち自身である、と言うことです。2月はスチュワードシップを覚える月間となっていますが、神さまの前にささげることができるもの、そして神の栄光を現すために蒔くことが出来るもの、それは私たち自身に他なりません。実は24節で言われる「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである」とは厳密には「一」はなく、「粒麦」と言う意味です。粒麦が、蒔かれることのなければ、粒麦のままである。しかし蒔かれれば、多くの実を結ぶ、と。主イエスは「あなたこそ主の栄光を現す粒麦だ」と、そして「その粒麦を蒔く生き方をあなたがたは求めていきなさい」と勧めます。実に聖書ではこのように言われます。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(ペトロの手紙一 1:23)と。わたしたち自身が朽ちない種であり、神の言葉により新しく生まれた種そのものです。主イエスの十字架と復活のいのちとは、私たちに恵みとなってすでに顕されています。この栄光を受けつつ、厳しい時代の中にありますが、勇気を
出して神の福音の種を蒔いていくものとなりましょう。見て下さい、種を蒔くわたしたち一人ひとりの横に、主イエスの姿が必ずあるはずです。その共に蒔いていく姿こそは私たちの栄光そのものです。