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礼拝
金子敬

常盤台バプテスト教会 2023.3.12 主日礼拝 「ここに愛がある」金子敬先生(元 連盟宣教主事、宣教研究所所長)【ヨハネの手紙一 4章7~11節】(新共同訳 新約P.445)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                     
招詞    ヨハネの手紙一 4章16b~19節  司式者
祈祷                    司式者
賛美    新生19番「くすしき主の愛」1・3節
献金感謝                  司式者
聖書    ヨハネの手紙一 4章7~11節
特別賛美  新生89番「ここに愛がある」
宣教    「ここに愛がある」金子敬先生(元 連盟宣教主事、宣教研究所所長)
祈祷
賛美    新生24番「歌え 歌え キリストの愛を」1・3節
頌栄    新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏
宣教概要
 「愛」という表現はかつて日本にはありませんでしたが、それに近い言葉として「慈悲」がありました。芥川龍之介の児童向け短編小説「蜘蛛の糸」に地獄に苦しむカンダタを救い出そうとする慈悲物語があります。
お釈迦様は大悪人である彼が一匹の蜘蛛を踏みつぶすのを思いとどまった唯一の善行に目をとめられ、地獄で苦しむ彼が救われるように天上界から蜘蛛の糸をおろします。彼はこれにすがっていたのですが下を見ると大勢の罪人が同じ糸を頼って登ってきます。これでは自分が危ういと思い、彼は自分の下に連なる罪人たちを振り落とそうとします。これを知られたお釈迦様はカンダタの上で蜘蛛の糸を切られてしまわれた、というお話しです。
そしてこの物語の最後に芥川は「しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら台(うてな)を動かして、そのまん中にある金色のずいからは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。」と記すのみです。慈悲深いお釈迦さまには何の痛みもなかったようです。
 仏教の世界では救いは「浄土」(清らかな世界)に達することを意味します。ここに到達するためには修行を積む必要があります。自分で到達できなければ「他人の徳」を死者に回してもらう必要があり、これを「回向」(えこう)と言い、これを行うために遺族は熱心に法要を行うのです。これが仏教の救いのシステムです。
 しかし、「神の愛」は自力で極楽浄土に行くのを助けるのとは異なります。神自らが降りてきて人の犯した罪を身代わりになってかぶり、その代償を支払われた、というものです。これが御子イエスによって現わされた「神の愛」です。イエス・キリストは十字架にかかられ、私たちの負うべき罪を引き受けて下さいました。「イエスを信じる」とはイエスを信仰の対象として仰ぐことの前に、イエスが十字架上で私の罪を私に代わって受け死んでくださったことを信じることです。それゆえにヨハネは語ります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一4:10)と。
 私に対する神の救いはイエス様の十字架の死において100%完成しています。この恵みを「感謝します」と受け取る、ただそれだけのことです。余りにも簡単なことのために「これだけでは救われた気がしない」と思われるもしれませんがそれ以上に為すべきことはないのです。100%神の業です。この神の愛を頂いて、わたしたちは「互いに愛し合う」という隣人愛に向かうのです。愛し合う課題の出発点に、この「神の愛」があることを忘れてはなりません。ヨハネはこの手紙の中でこの十字架の愛を強調し、「ここに愛があります」と宣言しているのです。