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礼拝
友納靖史

常盤台バプテスト教会 2023.4.2 <棕櫚の主日> 主イエスの許に帰ろう⑱「十字架の輝き」友納靖史牧師【マルコによる福音書 15章25~39節】(新共同訳 新約P.95~96)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                     
招詞    マルコによる福音書 15章16~20節  司式者
祈祷                    司式者
賛美    新生229番「十字架のもとは」1・2節
献金感謝                  司式者
聖書    マルコによる福音書 15章25~39節
主の晩餐式 「ひとつの聖霊」1・2・3節
特別賛美  第一礼拝「ヴィア・ドロローサ」聖歌隊
      第二礼拝   〃        〃
          「十字架のくぎ~愛を知るように」
                      ジョイフルクワイヤ
宣教    主イエスの許に帰ろう⑱「十字架の輝き」友納靖史牧師
祈祷
賛美    新生223番「主イエスは尊き(A)」1・2節
頌栄    新生672番「ものみなたたえよ(B)」
祝祷
後奏
宣教概要
 今日から受難週。十字架に架けられる前日の木曜にイエスによって定められた「主の晩餐」の式を3年振りに再開する喜び(個包装のパンと杯を受ける)を噛みしめています。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです(コリント一11:27-28)」との使徒パウロの言葉は、私たちの信仰を常に問います。この「相応しい」という言葉の原意は、私たちの今の心や思い・行動が相応しい状態であるか否かが問題とされていません。「イエスの貴い犠牲によって神に救われ、新しく創造された者である」ことを私たちが自覚して臨んでいるかが問われているのです。
クリスチャン・アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」は、幼い頃に置かれた環境の中、実は白鳥であるにも関わらず、それを知らずに苦しむ主人公が、成長して真の姿を知らされ、喜びのうちに空高く羽ばたいて旅立つ物語です。これは正に、神に救われ「神の子」とされた恵みを忘れてしまいそうな私たちキリスト者へ、主なる神からのメッセージと重なります。「御子イエスの犠牲によって、あなたは罪の奴隷ではなく、神の子(永遠のいのちを受けた者)へと生まれ変わった存在である」と。神に喜ばれる相応しい生き方は、この福音の恵みに感謝し、主の霊に導かれ、日々新しくされていくことです。この喜びに溢れて生活する時、神の目に相応しい者とされていくことを主イエスご自身が信じておられました。主の愛と犠牲の象徴であるパン(主の体)と杯(血潮)を受ける度に、私たちが整えられていくことを願って制定されたのです。
 人々から罵られ、唾をかけられ、十字架で釘打たれた主イエス。救い主であり、神なるお方が私たちを愛され、その苦難を甘んじて受けられた、その凄惨な姿と苦悩を改めてこの受難週は思い起こす時です。そのような中、今日の箇所は暗黒の闇に突然光が輝き、その輝きが闇の世界を覆っていったことをマルコは証しました。ローマ帝国で最も残虐な十字架刑の死刑執行の役目を担い、死に至るまで苦悩しつつ平安に満たされたイエスの姿を最も近くで見守った百人隊長がこう告白したのです。「本当に、この人は神の子だった」と。「イエスは神の子」と告白されるのはこの福音書で3回だけです。第一に、1章1節で「神の子イエス・キリストの福音の初め」とマルコはまず宣言しました。第二に、高い山の上で数名の弟子達の前でイエスの姿が変容し(白く輝き神の栄光を現わされ)た時、父なる神が天より「これはわたしの愛する子。これに聞け」と語られた時。最後が、弟子達でもなく、ユダヤ人でもなく、異邦人としてユダヤ人から忌み嫌われたローマの兵卒が、イエスは「本当に神の子であった」と告白した衝撃的事実をマルコは何よりも伝えたかったのです。「全地が闇に覆われ(15:33)」救い主としては敗北したかのように思えた十字架の死において、(ユダヤ人から見ると)救われるはずのない闇の中にある異邦人の百人隊長が、「イエスは神の子である」と告白し、救いの光が彼より世界中へと広がっていく驚きと感動をマルコはこの書のクライマックスとして書き記したのです。
 主の晩餐式で共にパンを食して執り行える喜び。しかし何よりも噛みしめたいこと。それは、主の愛と犠牲の象徴なるパンと杯を「私は相応しくない」と受け取ることを躊躇する時、「あなた自身がどうかではなく、主の愛と救いが完全であるから、あなたは受けて良い」との希望の福音です。主に感謝。