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礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2023.6.11 主日礼拝 信仰の礎③「罪とは何ですか?」森崇牧師【ローマの信徒への手紙 3章23節】(新共同訳 旧約P.277)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    ペトロの手紙 一 2章21~25節   司式者
祈祷                       司式者
賛美    新生19番「くすしき主の愛」1.2節
献金感謝                   司式者
聖書    ローマの信徒への手紙 3章23節
特別賛美  新生552番「わたしが悩むときも」
宣教    信仰の礎③「罪とは何ですか?」森崇牧師
祈祷
賛美    新生102番「罪にみてる世界」1.2.3節
頌栄    新生673番「救い主 み子と」
祝祷
後奏
宣教概要
 おはようございます。本日は「罪」について共にみ言葉に聴いていきましょう。常盤台バプテスト教会の信仰告白「3.人間の堕落」にはこのようにあります。
「我ら人間は神の像にかたどり、聖く創造せられたが、神への不従順により罪に堕ち、永遠の滅亡に定められたことを信ずる」

「罪」は「神への不従順」である、と告げています。これは最初に創造された人間であるアダムとエバが、エデンの園において神から「善悪の知識の木から決して食べてはならない」との神のことばを守られずに蛇の誘惑にあって食べてしまったということに起因しています。
このことはキリスト教会の中で「原罪」と呼ばれ、全ての罪の起源とされ、それゆえに人は必ず死ぬべき存在とされました。人の根本的な罪が一体何かというと、神のみ言葉に従わないことこそが、罪の始まりなのです。

使徒パウロは「内在する罪の問題」ついてローマ書7章で「わたしには自分のしていることが分からない」「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っている」「わたしは本当にみじめな存在です」と告げています。彼は罪が自分の外側に表されることを、このように言い表しました。「そして、そういうことを行なっているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7:17)自分の中に罪が住んでおり、またこのゆえにどうしようもないことを人々に、そして神に告白をしています。

聖書が私たちに指し示す罪について、本日は三つのことを共に分かち合いましょう。

①「罪」とは抽象概念ではなく私たちが犯す具体的な一つひとつの行為です。
詩編51編の中には罪に関する言葉が多く記されています。「背きの罪/わたしの咎/わたしの罪/悪」です。これらのものはわたしたちの生活の中で具体的に現れる罪です。

②すべての人間は存在自体の罪深さを持っています。
「自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いています」(Ⅰヨハネ1:8)わたしたちはいくつもの罪を犯す存在なのですが、実はその根本には、わたしたちの中に罪が住んでいるからなのです。わたしたちは罪を犯すから罪人なのではなく、罪人であるから罪を犯さずにはいられない存在なのです。

③すべての人間は神に頼らず、偶像に向かってしまう弱さを持っています。
神の似姿に創造されたわたしたちが、神の方を向くことが出来ない弱さをわたしたちは誰しもが持っています。科学やお金を自分の偶像として頼り、また木や石で作られた偶像を私たちはおがみ、神ではないものを神としてしまう弱さがあります。

神の独り子なるイエス・キリストは罪のない存在としてこの世に生まれ、罪人とされた人びとと共に歩み、十字架にかかって死んでくださいました。イエスさまはわたしたちに永遠の滅びではなく、永遠のいのちを与えるためにこの世に来てくださいました。

このイエスさまの生涯と十字架の出来事を、人々はのちに、「イエスさまはわたしたちの罪のために死んでくださった」と告白致しました(ガラテヤ1:4、Ⅰコリント15:3)。「わたしたちの罪のために」と言われる時には、わたしたちの中から出てくるさまざまな罪、数えられ、そして法によって裁かれる罪をさします。しかし、パウロはそのような罪のあがない(罪の奴隷から買い戻されるの意)としてのイエスの死の理解から一歩進んだ形で、大胆に、「わたしが今、…生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20)と告げます。それは、私たちに起きてくる数々の罪をゆるすためにイエスさまは来られたのではなく、まさにわたしの存在そのものを生かし、また神の赦しのもとで歩ませるためにイエスさまは来られたのだと言う、パウロ自身の福音でした。

人は「この罪はゆるされる/ゆるされない」と考えてしまいがちです。しかし、わたしたちの数々の罪のために、ではなく、わたしの存在そのもののために主イエスは来られたのだという福音を聞かされる時に、わたしたちは罪の場、罪の座ではなく、神の赦しの場、神の徹底的な赦しの座へと招かれるのではないでしょうか。

「罪とはなんですか」と問われた時、罪とは、「救い主イエスのみ座へと近づく契機である」と答えられたらどんなに素晴らしいことでしょうか。そして何よりもあなたをありのままで、そのままで受け入れたいとイエスさまは願っておられます。