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礼拝
古川敬康

常盤台バプテスト教会 2024.10.27 主日礼拝 「『キリスト讃歌』を生きる」古川敬康先生(学校法人北星学園 学園長・理事長)【フィリピの信徒への手紙 2章6~11節】(新共同訳 新約P.363)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    詩編 34篇12~16節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生336番「世の終わりのラッパ鳴りわたる時」
献金感謝
聖書    フィリピの信徒への手紙 2章6~11節
特別賛美  「ホザンナ」 有銘哲也
宣教    「『キリスト讃歌』を生きる」  古川敬康先生(学校法人北星学園 学園長・理事長)
祈祷
賛美    聖歌547番「かたりつげばや」
頌栄    新生670番「主のみ名をほめまつれ」
祝祷
後奏
宣教概要
 説教とは、神が創造された世界、社会、人間、特に隣人、そして家族に対して、自分はどう生きるかの決断を迫る神の呼びかけです。ある人には確認となり、ある人には新しい生き方の決心となるかもしれません。
 今日のテキストは「キリスト讃歌」と呼ばれる個所です。この讃歌は、パウロ版で、パウロが「十字架の死に至るまで」と「天上のもの、地上のもの、地下のもの」、さらに「父なる神が崇められ」という語句を加筆したものであって、オリジナル版にはこれがなかった、と分析されています。
 パウロ以前のオリジナル版は、イエスの弟子たちのユダヤ文化圏の教会とは異なり、ギリシア語のヘレニズム文化圏の教会で誕生しました。この文化圏を見ますと、興味深いことに、ギリシア・ローマ古代世界での奴隷制度にまつわる世俗的な神話的小説があり、その小説が用いる奴隷制の主題と基本的構想とこのオリジナル版との間に、並行関係があることが指摘されています。その小説では、英雄が奴隷の身分に貶められた時に、本質的には奴隷ではないけれども、奴隷としての役に抵抗せず、従順の模範となり恥辱の状態に屈したとなっているばかりでなく、この英雄は、「屈辱と名誉への可能性」、「失墜と昇進」とを象徴する存在となっています。当時、この神話を背景に、奴隷制度とは、高い地位への街道として受け止められていたと説明されています。当時の人は、これを了解していました。
 パウロ以前のオリジナル版を見ますと、3つの場面からなっています。第一場面は、キリストの天的存在性(2:6)、第二場面は、キリストの下降性(2:7-8)、第三場面は、神によるキリストの上昇性(2:10-11)となっています。第一、第二場面の主語は、すべてキリストです。キリストは、「神と等しくある」地位や機能等を自分の特権として利用せず、神的特権を持ちながらも行使しない主体的な、自己の選択的決断によって、「神の形」であるままで、自己卑下を貫徹して「僕(=奴隷)の形」をとりました。それによって、奴隷の形における神の形を明らかにされたのです。あの奴隷制の神話の背景には、たとえば、紀元前1世紀のイタリアの人口の35ないし40%、200万人が奴隷であった事情があげられていますが、人間として生まれ、最も不名誉な奴隷となれば、属性的に従順で、死も例外的ではありませんでした。ただ、あの神話のように、キリストの奴隷としての死を、第三場面への、そのような「通過点」として了解していました。ですから、キリスト讃歌には、救済的意味が見られません。この転換点となる第三場面では、主動詞の主語が神となり、主権者として神は、あの神話のような従順への報いとしてではなく、キリストの正しさの立証として彼を高挙し、先在者時を超える名の匹敵する地位、権威を授与されました。これが、オリジナル版です。
 パウロは、このオリジナル版への上述の加筆で、オリジナル版にあるヘレニズム的な合理性や理想的男の主体的自己犠牲のもつ模範性に対し「否」を下したのです。十字架とは、その真逆な「愚かさ、弱さ、」「魂のない物質」の象徴として、人間の側の合理的な計算的希望や期待を切断し、力による男性的な序列秩序を覆すものでした。高挙も、神の手中にある完全な恵みとしてこれ以上ない栄光をキリストに授与し、「神が崇められる」ことで結んでいます。
 キリスト讃歌を生きるとは、神の栄光へ向かって、神の絶対的主権を徹底するキリストの高挙を心に留め、一切の人間的計算による希望や期待が無とする字架の奴隷的死に至ったキリストこそ、完全な人間であり且つすべての力の支配者なる主として、生きることであると示されるのです。