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礼拝
友納靖史

常盤台バプテスト教会 2024.11.10 主日礼拝 人生を導く善き力33週目 仕える喜び⑤「私は仕えるため、生まれた」友納靖史牧師【マルコによる福音書 10章42~45節】(新共同訳 新約P.83)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    ヨハネによる福音書 3章5~7節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    「君は愛されるため生まれた」
献金感謝
聖書    マルコによる福音書 10章42~45節
特別賛美  「神さまの樹になりたい」聖歌隊・ジョイフルクワイヤ・グレースアンサンブル
宣教    人生を導く善き力33週目 仕える喜び⑤「私は仕えるため、生まれた」  友納靖史牧師
祈祷
賛美    新生446番「いつも喜んでいなさい」
頌栄    新生670番「主のみ名をほめまつれ」
祝祷
後奏
宣教概要
クリスチャンには誕生日が二つあります。一つは母の胎内から生まれ、与えられた「命」を祝う日。もう一つは、イエスを救い主と信じ、与えられた「永遠の命」を祝うバプテスマ(洗礼)を受けた日です。主イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネよりバプテスマを受けた際、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天より父なる神の声を聞きます(マルコ1:11)。そして十字架の死と復活に至るまで約三年間、神の福音を伝え、病や人生で苦悩する人々に救い(癒し)を与え、仕えるため歩まれました。

成長感謝礼拝は、子ども達の身体的な成長を喜ぶと共に、神の目から見た二つ(心と魂)の成長を喜び感謝する日です。第一に『心(精神)の成長』は「あなたは神に愛され、生まれた」と、神の真理に耳を傾け“わたし”という存在がこの地上で生きる意味があると信じ「命」の誕生を喜び生きることです。

第二に『魂(霊)の成長』で、「わたしは神と人とに仕えるため、生まれた」と、神に与えられた「(永遠の)命」の誕生を喜び、自分の為だけでなく神と人々のため、その命を使い(使命:Missionミッションに)生きる人生です。この第二の誕生日(新生Born Again)をすべての人々が得るため、主イエスは福音を広め、弟子達を育てました。

マルコ10章35節は、十二弟子中、兄弟で弟子とされたゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスにあることを願う出来事が記されます。神の子・救い主の姿を隠し、人の子として地上で歩まれていた主イエスが、いつの日か本来の栄光ある姿で、天でも地でも「王の王・主の主」として君臨する日が来ると信じていた彼らの願望とは…、「その時が来たら、自分を他の弟子達よりも偉い立場に置いて欲しい」と抜駆けしようとしました。これを聞きつけた他の弟子たちは怒ります。そこで主イエスは、弟子全員を呼び集め語られました。権力を持ち、地位ある限られた人々が上に立ち、他を彼らに仕える人(僕しもべ)として使うのが世の常だ。だが「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になれ。人の子(イエス)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と。

 通常、何か人にしたら、それに対する対価が帰ってくる(Pay back)ことを期待します。しかし「仕える」とは、見返りを求めず他者に関わることです。とは言え、神と人のために無償で仕える生き方(Pay it forward)を選び取るとは、何と難しいことでしょうか。人類すべての罪の身代わりとなって、ご自分の命を献げ、十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス。その生き方に少しでも倣い歩む弟子として成長(成熟)するため、日々どのように私たちは生きたらよいのでしょうか。

インドの貧民窟で献身的奉仕を続けたマザー・テレサが残した言葉に「Give your best, anyway(別プリント)」があります。これは地上で報いを望む生き方ではなく、主イエスが示された「天に宝を積む」、つまり天にて与えられる神の祝福に期待し、堂々と自らの使命に生きる人生(マタ6:19-21/マル10:21)の指針となります。

 子ども達が送り出される地上世界の価値観は、あのヤコブとヨハネ兄弟のように他者より偉くなることが目標かもしれません。《そうであっても》私たちは主イエスの弟子として、自分の為だけでなく、与えられた命を精一杯、主なる神と隣人のために使う人生(使命)を喜びとする。そのような魂の成長<品性・人格の成熟>を大切にして参りましょう。日々の出会い(喜びも悲しみもすべて)に意味があることを信じ、天を見上げて歩み続ける時、きっと私たちは心から告白できるからです。

「わたしは (神と人に)
仕えるため、生まれた」と。