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礼拝
渡部 信

常盤台バプテスト教会 2024.3.24 主日礼拝 「天の御心が地に成し遂げられた瞬間」渡部 信牧師【ヨハネによる福音書19章28~30節】(新共同訳 新約P.208)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞        司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生227番「カルバリの丘へと」1.2.3節
献金感謝            
聖書    ヨハネによる福音書19章28~30節
特別賛美  "Via Dolorosa"  ありめせつこ・有田純子 
宣教    「天の御心が地に成し遂げられた瞬間」渡部 信牧師
祈祷
賛美    新生216番「栄の冠を」1,2,3節
頌栄    新生667番「聖なるかな聖なるかな」
祝祷
後奏
宣教概要
 今週は救いの道を備えてくださった記念すべき受難週の時を迎えています。 罪の迷いの中にある私たちを愛するがゆえにご自身の御子を遣わし、私たちの罪を贖うために十字架で死んでくださいました。つまり「神はその御子をこの世に賜わるほど私たちを愛された。それはキリストを信じる者がひとりも滅びることなく、だれひとりも滅びることなく永遠の命を得るためです」。

それは私たちの罪を贖うために、最後に十字架の死を遂げることによって救いを完成されました。

 罪を贖うと言う言葉は、あまり使われない言葉です。普通、罪を償うと言えば、悪いことをすればそれに応じて、罰金とか、懲役、死刑という形で人は罪を償わなければなりません。経済生活でも、借金をすれば、必ずそれを返済しなければなりません。もし返すことが出来なければ、人生が破産します。

 旧約聖書を見ますと、神の前に完全な人はいなく、定期的に神殿に出向いて、神に捧げものをすることによって神に罪の赦しを請い、身を清めていたのがユダヤ人でした。その捧げものの中で、一番重要なものは「燔祭の儀式」と言いまして、牛や、山羊、羊などをの動物を殺し、血を流し、その肉を焼き尽くすことによって、自分の罪の代償、身代わりの犠牲として動物を捧げました。しかし新約聖書のヘブライ人の10章3節には「ところが実際はこれらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことはできないからです」。その理由は分かると思います。雄牛や、雄山羊が殺されても全然、私たち人間の心が痛みません。贖いというのは、その人の罪の深さを、罪のない人が当人に代わり償ってあげて始めて成就する出来事だからです。借金のある人が、自分では返せないので、お金を持って居る人が代わりに弁済して借金から解放されます。このヘブライ人の手紙では、キリストがこの世に来られた理由を説明しています。「あなたはいけにえや捧げものを望まず、むしろ、私のために体を備えてくださいました。あなたは焼き尽くす捧げ物や罪を贖うための生贄を好まれませんでした。「ご覧ください。私は来ました。聖書の巻物に私について書いてある通り、神よ。御心を行うために」。神様はもはや動物の生贄や捧げものを好まない、そこでキリストがそのために体を備えてこの世に来られたという意味です。つまり、イエス・キリストは私たちの罪を清め赦すために、代わりにご自分の体を犠牲として捧げるためにこの世に来られた。その聖書の巻物に私について書いてある通りとは、イザヤ書53章のことです。11節にはこのように記されております。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。・・・罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いたもののために執り成しをしたのはこの人であった」。彼とは来るべきキリストを指しており、神の御子が全人類の罪を背負って執り成しをすることを預言しています。さて、問題はこの聖書に書かれている救いはそれから2000年経った現代生活に通用する救いなのかということです。農耕民族である日本では動物を切り裂いて罪の贖いをするという儀式も慣習もありませんし、私たちの現代生活では贖いの儀式さえ存在しないからです。逆に聖書が現存し、宣べ伝えられて始めてキリストの十字架による救いを知るのです。そしてキリスト教が2000年間、この救いの契約を信じて宣べ伝えて来られたのは、その救いを信じた者が、新しくその救いの契約によって新しい人と生まれ変わったという実体験と証があるからこそ、この救いが本物であることを知るのです。