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礼拝
森 崇

常盤台バプテスト教会 2024.3.31 イースター主日礼拝 「インマヌエル ー生きる目的を告げよー」森 崇牧師【マタイによる福音書 28章16~20節】(新共同訳 新約P.60)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    ローマの信徒への手紙 10章8~13節    司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生464番「主が来られて 呼んでおられる」
献金感謝              
聖書    マタイによる福音書 28章16~20節
特別賛美  「栄の冠をささげまつらん」聖歌隊
宣教    「インマヌエル ―生きる目的を告げよー」 森 崇牧師
祈祷
賛美    「見よ、暗き夜は明け」
頌栄    新生33番「輝け主の栄光」
祝祷
後奏
宣教概要
 主イエスは甦られ、今、生きておられます。主イエスは私たちを復活された山へと招かれています。マタイによる福音書では、イエスさまが弟子たちと再会なされたのはイエスさまが指示しておられたガリラヤの山でした。十字架刑に処されたエルサレムが都市だとすると、ガリラヤの山は弟子たちにとってもイエスさまにとっても故郷です。しかしただ単に故郷で復活されたイエスさまのすがたが現されたというだけではありません。

 マタイ福音書の「山」は注意を払うべき場所としています。例えば、イエスさまが大群衆を前にご自分のみ教えを語られたのは山の上でした(5:1「山上の垂訓」)。イエスさまは深い祈りをなされるとき、静まるために山に行かれました(14:23)。イエスさまに助けを求めて来た人々を癒され、かつ四千人のためにパンを裂き、魚を分けられた給食をなされたのも山でした(15:29)。このイエスさまが神の子として輝く姿で現され、イエスさまと神の僕モーセと預言者エリヤが対話をされたのも山でした(17:1)。マタイ福音書ではこのように、イエスさまのみことばが語られる場所、イエスさまが深く祈られるための場所、そして同時に多くの人々の必要が満たされる奇跡の行われる場所が山です。この山とは教会を指します。

 イエスさまが十字架にかかられる前におられたのは、オリーブ山です。ここで「終末の教え」(24-25章)を語られます。ここでは「山に逃げよ」と主イエスは言われます。それは「迫害が起こった時、安全な場所に逃げなさい」と、何よりもいのちを優先しなさいとのメッセージです。それは死んではいけない、死ぬまで我慢してはならないという、いのちを守る積極的な言葉です。それと同時に、何かあれば教会に行きなさい、主イエスのみことばが語られる場に向かいなさいとのメッセージです(24:16)。
 主の晩餐の後、一同は賛美を歌ってオリーブ山へ出かけます。この山では、ペテロの離反を告げ、弟子たちのすべてはつまずいて逃げ去ってしまう苦い思い出のある場所です。しかしイエスさまはこの時にこのように言われます。「しかし、わたしが復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」
弟子たちはイエスの十字架の死と復活の出来事を通し、この深い悲しみの谷を乗り越えて再びガリラヤの山に向かうことになります。このガリラヤの山がどこを指しているかは不明確です。それゆえに私たちも復活の主の山(=教会)に登り、復活の主の顕現に預かることが出来ます。復活されたイエスと出会った時、弟子たちはひれ伏しました。ここでの「ひれ伏す」とは「礼拝」を意味します。かつてイエスさまが聖霊によって生まれた時、東方の学者たちが「ひれ伏し」ましたが(2:10)、教会は聖霊によって生まれた方を礼拝し、また復活された主を礼拝します。この礼拝の場には、復活を信じず、疑うものもいることができる共なる礼拝です。

 復活の主の山において、主イエスは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなた方に命じておいたことを全て守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と告げられました。復活のイエスは、つまずきからの解放の場所としてこの山を選び、またこの山から、復活者イエスさまと共に大宣教命令に生きるように呼びかけられています。このイエスさまの言葉はまず「行きなさい」英語ではGo!と呼びかけられます。何に行くのか。それは復活の山から下りてそれぞれの使命の働きの場に押し出されていく、遣わされて行くという外に向かうベクトルでもあり、同時に内側にも向かっていくものです。すべての民を弟子とすることは世界のすべての人々が主イエスを信じて主イエスの弟子とされるように、世界へと遣わされていきます。しかし、これは同時に内側に深まっていく働きでもあります。「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、」「すべて守るように教える」この働きは絶えず自己吟味と批判の中で良き言葉を持って伝えていくのです。そしてここから遣わされる人々と共に、復活の主はどこまでも、世の終わりまでいつも共におられるのです。イースター、おめでとうございます!