礼拝
松﨑 準
常盤台バプテスト教会 2024.4.21 主日礼拝 「原因から目的へ」松﨑 準牧師(ラーレー日本語バプテスト教会牧師)【ヨハネによる福音書 9章1~12節】(新共同訳 新約P.184)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 創世記 19章17節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生124番「この世はみな」
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 9章1~12節
特別賛美 第一礼拝:新生647番「うつむいた顔を上げて」平野範子
第二礼拝:「My Life Is In Your Hands」シャイン
宣教 「原因から目的へ」 松﨑 準牧師(ラーレー日本語バプテスト教会牧師)
祈祷
賛美 新生557番「幻をわれに」
頌栄 新生668番「みさかえあれ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- イエス様が道を歩いておられた時に、生まれつき目の見えない人を見かけました。
聖書には他にも、「イエス様が見た」とか「ご覧になった」とか「見つめた」等と書かれている箇所がたくさん出てきます。イエス様の眼差しの先には、いつも苦しみや悲しみを抱えている人や社会から見下され、虐げられている人たちがいる。イエス様はなぜかそのような人たちに、まず目が向かってしまうのです。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム・・【遣わされた者】という意味・・の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」(6〜7節)
生まれつき目の見えなかった人が見えるようになった!イエス様の奇跡は素晴らしい!しかし、この箇所が示しているメッセージはそこではないと思います。最も大切なことは、イエス様とこの盲人との出会いと関わりなのです。
ヨハネ福音書9章には、この盲人が癒やされたことに対する人々の三つ反応が書かれています。①イエス様がこの盲人に出会った時に一緒にいた弟子たちの反応です。弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか・・・」と言って、盲目と罪との因果関係を問題にしています。②この癒しの事実を知ったファリサイ人たちの反応です。彼らは、この人が癒やされたことよりも、安息日に労働をしたかどうかを問題にしています。③この人の両親の反応です。彼らの態度は何とも素っ気ないものです。息子の目が見えるようになったのに喜びが一切感じられません。彼らは何よりも自分たちの立場(居場所)を問題にしています。この三者に共通していることは、誰もこの人の悲しみや喜びに寄り添おうとしない、この人に対する愛がないということです。これらの人々の反応を見ただけでも、この人がこれまでどれほど辛く悲しい思いで生きてきたかということが分かります。だから、イエス様の眼差しが先ずこの人に向けられたのではないでしょうか。
私たちも、このイエス様の弟子たちのように、何かに行き詰まってしまったときや悲しいこと、苦しいことに遭遇したとき、まずその原因を考えてしまうことが多いのではないでしょうか。「どうしてこんなことが起こるのだろうか、なぜこんな目に遭うのだろうか、自分の何が悪かったのだろうか」などと原因を追及してしまうことがあるのではないでしょうか。
イエス様は、原因追及をする弟子たちにこう答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と。弟子たちは、なぜ目が見えないのか、その「原因」に注目し、過去を見ていました。しかし、イエス様は神の業が現れるためであると言って「目的」を示されました。過去ではなく未来を見ています。「原因」は後ろを向きますが「目的」は前を向きます。過去の過ちやすべての原因は、主が負ってくだいます。だから私たちは主が示された目的に向かって前を向いて歩みたいと思います。
この時の彼の思いはどんなだったでしょうか。せっかく目が見えるようになったのに、親からも見放され、ファリサイ人たちからも追い出され、誰も一緒に喜んでくれる人はいなかった。しかし、そのとき、イエス様は彼に出会ってくださり、彼に言いました。「あなたは人の子を信じるか」と。これはこの人が真の癒し、真の救い、真の信仰に、目が開かれるための招きです。人々から見捨てられた人をイエス様は招かれるのです。イエス様はこの人の肉の目を開いただけでなく、心の目を開かれました。彼の目に泥を塗って見えるようにされたことが奇跡ではなく、彼の心の目を開かれたことこそが奇跡であり、神の御業なのです。