礼拝
嶋田和幸
常盤台バプテスト教会 2024.6.23 主日礼拝 「『子ども』から子どもへの祝福」カンボジアバプテスト連合 嶋田和幸宣教師【マルコによる福音書 10章13-16節】(新共同訳 新約P.81)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編146篇 6b-9節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生660番「力と光と恵みの神」
献金感謝
聖書 マルコによる福音書 10章13-16節
特別賛美 新生395番「伝えましょう イエスの救い」1.4節
宣教 「『子ども』から子どもへの祝福」 嶋田和幸宣教師
祈祷
賛美 新生585番「救いのぬし主よ」
頌栄 新生668番「みさかえあれ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 聖書には、子どもはあまり登場しませんし、子どもについて詳しく書かれていません。イエス様が活動していた当時、イスラエルでは子どもは社会的に価値のある存在とは見なされていませんでした。当時、子どもは奴隷と同じく、父親の所有物であり、売ることもできたし、捨てられることも珍しくなかったそうです。
今日の聖書箇所では、人々が、イエス様に手を置いて祈っていただくために、子どもたちをイエス様のところに連れてきました。すると、それを見た弟子たちが、人々を叱りました。弟子たちにとっては、子どもというのは騒がしい存在、先生を煩わせる存在、働きの邪魔をする存在でしかなかったのでしょう。
しかし、イエス様は逆に、弟子たちを叱りつけ、こう言われました。「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。」イエス様は決して、子どもたちを軽く扱うことはしませんでした。続けてイエス様は言われます「神の国はこのような者たちのものである」。イエス様は、ご自身の言葉と、具体的な行いや業によって、神の国を現わされました。それは、決して治るはずのなかった病の癒しであり、長年人々を苦しめていた悪霊からの解放であり、そして、弱く貧しい者たちと食事の交わりを共にすることでした。イエス様はこれらの御業を通して、神の国を現わされました。その神の国は、子どものように、物理的にも社会的にも経済的にも「いと小さい」者たちのところにまず来るのです。
イエス様の言われる「子どものように神の国を受け入れる」という言葉は、「子どもを受け入れるように、神の国を受け入れる」、つまり私たちが、子どもを受け入れるように、神の国を受け入れる、ということです。イエス様は、子どもたちを排除しようとする弟子を戒め、受け入れました。それまで軽視され、物のように扱われていた子どもたちを、イエス様がそばに呼び寄せ、手を置いて祝福されたのです。新約聖書の中で、イエス様が誰かに、手を置いて祝福している場面は、ここだけです。
子どもを受け入れるとは、どういうことなのでしょうか?まず知る必要があるのは、私たちもまた、子どもであるということです。使徒パウロは、ガラテヤ書3:26にて「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」と言っています。神は、イエス・キリストを通して私たちを罪から救い出して下さいました。それだけでははく、神は私たちを、ご自身の子どもとしてくださったのです。私たちは何歳になっても、社会的にどんな地位にあっても、どれだけ能力や財産があっても、神の御前で、未熟で小さな子どもなのです。
イエス様は、子どもを受け入れるということについて、マルコ9:37ではこのように述べています。「わたしの名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」キリストは子どものうちにおられます。そして待っておられます。私たちに受け入れられ、愛され、祝福を分けてもらうのを、待っておられるのです。私たちが出会うのは、多くの中の具体的な一人の子どもです。その子どもとは、皆さんからの愛を必要としている子ども、皆さんを通して与えられる神の祝福を、必要としている子どもです。
イエス様は子どもたちをご自身のもとに引き寄せ、抱き上げ、手を置いて祝福されました。私たちはイエス様に倣い、子どもたちを喜んで迎え入れ、そして神さまから頂いた祝福を分かちあうのです。そうすることによって、子どもたちの内におられるイエス様を通して神様の祝福が広がっていくでしょう。私たちはその子どもたちから、更なる祝福を頂くことでしょう。