礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2025.10.26 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑲「栄光は神だけに帰そう」友納靖史牧師【ヨハネによる福音書 7章1~24節】(新共同訳 新約P.177~178)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 詩編 96篇4~10節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生101番「主の栄光」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 7章1~24節
特別賛美 「たたえよ栄光の神」
宣教 ヨハネ福音書講解⑲「栄光は神だけに帰そう」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新聖歌397番「神の御子にますイエス」
頌栄 新生33番「輝け主の栄光」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい(コリント一10:31)」。
迫害激しい初代教会形成期、十二弟子の一人でヨハネの兄弟ヤコブ(ルカ5:10)がヘロデ王(アグリッパ1世)に殺害されました(使12:1~)。ヘロデ王は更にペトロをも捕らえ投獄し殺害しようとした直前(AD44年)、二つの特筆すべき出来事が正確に記録されます。その一つは主の天使によって獄中より救い出されたペトロのこと。もう一つは、残虐極まりない当時の王ヘロデが彼らの前で演説した時、ティルスとシドン地方の住民が王の機嫌を取るため「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続け、それを甘んじて受けたヘロデ王。「するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた」ことです。福音記者ルカは初代教会の人々がこのことを肝に銘じるよう記録しました。主なる神に祝福される秘訣は、私たちの人生における栄誉や成功の全てを自らに帰し、高慢になることなく、ただ神から与えられた恵みとして、栄光を神に帰すことだからです。
さて、主イエスの母マリアとヨセフとの間にイエスの弟たちが授かっていました。彼らは残念ながら的外れな助言を兄イエスにしたのです(ヨハ7:1-4)。彼らの言葉はイエスを思ってのものでしたが、そこには神の時・神の計画ではなく、この世と人々に理解され上手く立ち振る舞って欲しいとの肉的思いからでした(7:3-4)。しかし主は弟たちの助言によってではなく、主ご自身の判断で都へ向かわれました。それは常に主イエスが父なる神に祈り、問いかけ、行動された結果です。神殿の境内で主の知恵に満ちた教えに触れた人々が疑念に満ちた声を上げた時、主は答えられました。「…自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人で、その人には不義がない(7:18)」。ここにも主はその生涯を通して、私たち全ての者に求められた生き方、『何をするにしても、すべて神の栄光を現すため(コリ一10:31)』の生き方を示されたのです。ではどのように私たちは日々の生活で自己中心的な人生ではなく、神に栄光を帰す生き方へと導かれるのでしょうか。
冒頭で触れたペトロの獄中からの解放とヘロデ王の死に、重要な相違点を見出せます。獄に捕らわれヘロデに殺害される危機にあったペトロに「主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた」とあります。実はこの“つつかれる”(ギ語:パタッソー)は、ヘロデ王が人々から「神の声だ」とそぐわぬ名声を浴びせかけられた時、否定せず、神に栄光を帰さなかった時の記述「主の天使がヘロデを撃ち、倒れた」と同じ言葉が使われます。主の天使が私たちの心と魂に触れ「つついて」くださる。それは聖霊の促し、語りかけです。主なる神は常に、私たちが間違った選択をしないように関わってくださるお方であり、その関りが人生における救いや解放への道へ至るのか、それとも滅びの道へと通じるのか。それは私たちの選択と応答にかかっているのです。
ペトロは多くの過ちを犯しながらも復活の主の愛に応答し、立ち帰りました(ヨハ21:15-18)。そして福音記者ヨハネは主に託された使命を全うしたペトロのことを「・・・どのような死に方で、神の栄光を現わすようになるのかを(主イエスが)示された(21:19)」と証言したのです。先週で葬儀を行ったT兄は召される数か月前、正に主に「脇腹をつつかれ」、家族と共にこの教会に繋がる決意をされ、栄光と賛美とを主に帰し、天へと召されました。私たちの人生も紆余曲折ありますが、常に「神に栄光を帰す」生き方へと導かれる聖霊の働きに敏感に応答して参りましょう。