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礼拝
友納靖史

常盤台バプテスト教会 2025.10.5 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑰「『命のパン』を食し、健やかに!」友納靖史牧師【ヨハネによる福音書 6章34~59節】(新共同訳 新約P.175~176)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    コリントの信徒への手紙 一 9章25~26節 司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生1番「聖なる 聖なる 聖なるかな」
主の祈り
献金感謝
主の晩餐式 「ひとつの聖霊」
聖書    ヨハネによる福音書 6章34~59節
宣教    ヨハネ福音書講解⑰「『命のパン』を食し、健やかに!」  友納靖史牧師
祈祷
賛美    新生520番「人生の海のあらしに」 
頌栄    新生668番「みさかえあれ(A)」
祝祷
後奏
宣教概要
 かわることのないお方です(ヘブライ13:8)」。これはヨハネ福音書が貫くイエスへの主告白と重なる信仰宣言です(ヨハ1:1-3,8:58)。5千人の給食の翌日、主を追って来た人々と交わした長い信仰問答が記録されています。出エジプト後、ユダヤ人の先祖らが荒野を旅した時、神が不思議な「マンナ」と呼ばれる食べ物を天より降らせ、日々命を守られました。この奇跡が再びその時代に起きることを求めた彼らはイエスにこう迫ったのです。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と。すると主は答えられます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない(ヨハ6:35)」。ところが彼らはガリラヤの町ナザレで大工セフの子として育ったイエスの外面的姿しか見ることが出来ず、神の言、いや神として世に来られたお方を信じられませんでした。それでもなお主イエスは繰り返しご自身の存在を開示されます。「わたしは天から降って来たパンである(6:41)」「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである(6:46-48)」と。それでもつぶやき不信を抱く人々へ究極の真理を主は語られました。「…わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる(6:56-58)」。
私たちが今この御言葉を読む時、主イエスが十字架で死なれた犠牲と贖いの尊さ、それを思い起こすため定められた「晩餐式」の意味を感謝し喜ぶ者とされています。群衆はイエスの行う神業を奇跡と呼び、それを求め続けました。しかし主が望まれた最も偉大な奇跡とは、朽ちない永遠の命を得た喜びを感謝して主の晩餐を受け、信じる者が死で終わらず復活の命を得ていくことを先取りして見つめて生きる人々の姿です。今日の箇所はそれを主は語られました。
私たちはつい、過去と現在の状況を見て物事を判断します。しかし永遠に生きておられる神と主イエスは、未来、いや永遠の時を見据えられ、主と同じ知恵と信仰を私たちにも与えようとされました。この主イエスが示された信仰と愛の千里眼(知る力と見抜く力:フィリ1:9)を、私たちが祈り求める時、聖霊によって与えられることを信じ感謝します。
「敬老感謝礼拝」は、年を重ねることで身体的が弱っていく現実だけに目を注ぐのでなく、パウロにも与えられた信仰と希望の千里眼を再確認する恵みの時です。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます(コリ二4:16-17)」との約束通り。
ある神父へ南ドイツの友人が送った詩「最上のわざ」は主にある信仰の目を開かせてくれます。「この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。…老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外していくのは、真にえらい仕事。…すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と」(一部抜粋)。いかなる時にも共におられる主イエスにこの身を委ね、今もそしてこの後も健やかに歩み続けましょう。